感想『ボヘミアン・ラプソディ』やっぱりこれは”心の旅だよ”

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既に世間的にもかなり評判もよく、身内のあいだでも”傑作”の呼び声の高い、

故・フレディ・マーキュリーと半生と伝説的バンド、”クイーン”の生い立ちを描いたボヘミアン・ラプソディ

例に漏れず、公開初日に観てはいたのですが、仕事にかまけて文章化する時間が取れなかったのですが、世間からの良し悪しの感想や、評論家からの批評もある程度で揃った感があったので、個人的な感想とこの映画の持つ”正しさ”について、

さらっと振り返ってみたいと思います。

 

 

 

個人的にベスト5に入るくらい好きな『somebody to love』と『Under Pressure』を使用した特別映像。

 

ともあれ、度重なる監督&シナリオライター交代劇や主演降板騒動を経た痕跡は微塵も感じさせず、今年観た映画の中でも郡を抜いて素晴らしい出来栄えとなっておりました。

 

サシャ・バロン・コーエン、フレディ・マーキュリー役をなぜ降りたのかを語る (2016/03/10) 洋楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 

『ボヘミアン・ラプソディ』監督クレジットはブライアン・シンガーに – cuemovie.com

 

製作の裏側に回っていた、現クイーンメンバーのブライアン・メイロジャー・テイラーの存在の賜物なのでしょうが、彼ら自身は大元のスタッフとのトラブルの原因ともなっていたそうなので、何とも…

 

大揉めに揉めた経緯を持ちながら、実際にほぼメインスタッフ不在という状況下でここまでまとまりの良い作品が出来上がったのは、ひとつは”フレディ・マーキュリー”という圧倒的カリスマの後光とクイーンの楽曲の持つパワー。

 

映画は実際に出来上がった映像が全てですから、終わり良ければ何とやら、ですな。

 

古参のクイーンファンからはライブエイドの実際のセットリストの相違や、フレディがエイズ感染を告げる年代の相違などが指摘されていますが、

 

個人的には”史実”と”映画としての語り口”という二者は、全く別物と考えているので、

あまり気にはなりませんでしたね。

これが”社会的ドキュメンタリー”作品であったなら問題でしょうが、あくまでも”伝記映画”であり、「伝説」を記しているわけですから、

主体となる””ファルーク・バルサ””という無名の青年が、次第に”フレディ・マーキュリー”というひとつのアイコンとなる成長物語として成立しているのだから、

実際がどうとか、些細な問題としてスルーできました。

 

教養的な部分での評論は、町山智浩氏の、

町山智浩の映画ムダ話101『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)』

のキレがよく、この映画に込められた”ロマン”を理解した上で、的確な評論を述べています。

 

「これは、サムバディ・トゥ・ラブ(誰かからの愛)を求めたボヘミアン(漂泊者)が苦難の果てにチャンピオンとして故郷に帰るまでの伝説」

 

 

youtube上で無償で閲覧できる範囲としては、漫画家の山田玲司氏の動画より、

氏の述べるところを要約すると、

「今作を”素材の味”をウリにしている料理で例えるならば、勿論、調理の手は入っているが、最低限火を通すとかその程度。ただ、そのチューニングの加減が、かつて観た実在のバンド伝記映画の中でも、最も理想系に近い」

 

「史実とのギャップも多々あるが、まだクイーンの曲を聴いたことの無い人たち、これからフレディを知る、という人たちに対して、”これが俺の紹介したいフレディ・マーキュリー”という男なんだ!と胸を張ってオススメできる出来栄え」

 

という、ふたつの発言がまさに今作の本質をズバリ射た表現だと感じた。

 

個人的に今作でグッときたポイントとしては、

 

前述のとおり、今作が単なるバンドの実録映画を超えた、二つの家族、二人の”クイーン”に見守られながら揺れ動く、アイデンティティに悩む青年の成長物語に仕上がっているところ。

 

今作が圧倒的なエンタメの要素で構築された映画であることには間違いないのだが、

永遠に解消されない悩み”や”抱える痛み”に対して、どう折り合いをつけるべきなのか、という人生の問いかけに対して、最早、対抗し得る手段は”受け入れること”つまり「愛」しかないのだ。という至極ダサいが、これが”真理”なのだと頷くしかないフレディ・マーキュリー自身の思想とクイーンの数多の楽曲とでの本質的な部分での反復となっている。

 

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それもこれも”フレディの美しい歌声”ありきで制作された映画なのだから、楽曲のパワーに寄るところは大きいだろうが、今作が決しておんぶに抱っこだったか、と問われれば、僕はそうは思わない。

 

感覚的な話になってしまうが、フレディの声というのは自らの「内なる声」だと感じる。

やりようの無い憤り悲しみ喜びといった感情を発散する際に”腹の底から出したいヴォイス”というのがフレディの声であり、歌詞は”正直さ”に訴えかけてくる。

だから、僕はクイーンの曲を聞くと鼓舞されるし、同時に泣きたくなる様な気持ちになる。

 

www.youtube.com

 

(映画としては、”一級の素材を得た時点で勝ち”ではないが、世には一流の素材を扱いながらも余計な味付けで台無しにしている映画も、B級食材を用いた特A級の映画もごまんとあることを覚えておいて欲しい。)

 

 

●今作の目玉の一つである、1985年イギリスのウェンブリーホールで行われたライブエイドの再現シーンは、最も史実との差が激しい反面、”ファルーク・バルサラ=フレディ・マーキュリー”という主人公を中心とした、”他の登場人物たちとのアンサンブル”の場として注目してみると、成る程、涙腺を刺激されざるを得ない巧みなカット割や場面転換になっていることに注目して欲しい。

 

バンドの再起をかけた大観衆の見守るステージ上で「ママ、もう甘ったれな自分は殺したよ」「僕らこそが勝者なのだ。友よ。」と熱唱するフレディに対し、ステージ上でのバンドメンバーの細かな視線のやり取りや、ダイレクトな声援として状況を盛り上げる観客たち。遠く離れた自宅でわが子を見守るフレディの母、舞台袖から見守る元・恋人のメアリーという二人の”クイーン”のリアクションを、実に効果的にカットインしつつ、シーンを大いに盛り上げてくれる。

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どれも所謂、役者の”リアクション”としての”表情”を捉えたショットが多いが、その瞬間に対しての観客の感情を誘導する機能を果たしており、シンプルながらとても力強い。同時に「この男の人生を影ながらずっと見てきたのだ」という、半ば生き証人的な感覚で、強くフレディに肩入れしてしまう環境を強制的に作り出す。

常套化してしまった手段だが、実際のライブ映像では味わえない、映画的な快感に満ちたシーンであり、クイーンを知らない世代でも感情移入できるよう、配慮に配慮を重ねた手堅い仕事ぶりである。

 

ともあれ、万人にオススメできる出来の映画であることは間違いなのだが、

これを、じゃあPCのモニターで観たところでどうなのか、というところはわからない。だから、年末を目前にして、今だに劇場はリピーターで一杯なのだろうし、

劇場で体験すべき映画ではあると思うので、ぜひ劇場に出向いて鑑賞して欲しい。