感想『来る』 〜極彩色に彩られたカリカチュアなトンデる映画

 久しぶりに会った元・同僚の友人からの強い勧めにより、年末の憑き物落としとしてはベストかなぁという理由もあり、

オープンしてからまだ足を運んでいなかったTOHOシネマズ日比谷にて鑑賞。

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意味深に上を見上げた構図。得体の知れない”何か”を見据えるようで良いポスターだと思うよ。

監督は『下妻物語』や『告白』『乾き。』の中島哲也。筆者は『下妻物語』と『告白』の過剰な演出と人物設定。潔いほどのストレートさ、”撮りたい映像”大前提のとっ散らかった構成が大のお気に入り。

 

恥ずかしながら、原作である澤村伊智 著『ぼぎわんが来る』を鑑賞後にKindleで読了。

 

タイトルの″ぼぎわん″は澤村氏創作の化物とのことだが、恐らく「子供をさらう」という性質からしてヨーロッパの民間伝承に伝わる″ブギーマン″を原型としていると思われる。

 

最も、今作の″ぼぎわん″は対象を子供のみに限定しない、

血しぶきブシャー、腕ゴロリ、臓物グジュリと景気の良い暴れっぷり。このへんのやり過ぎ具合は『姿三十郎』を思い出して貰えると分かり易いよ。

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姿こそ劇中では噛み跡から「乱くい歯」であることが端的に示されるのみで、基本的に取り憑いた宿主を経由したり、対象の″恐れているもの″の姿を借り出現する事が多い。

 

そうした意味では、今作が『四ツ谷怪談』の″お岩さん″や『リング』の貞子、『呪怨』の伽椰子のような”非業の死を遂げた人間の怨念の具現化”=”モンスターもの”ではなく、

人間の精神的病理に潜む”魔”そのものに焦点を当てた”『エクソシスト』風の怪異映画”として楽しむと良いと思う。

 

今作は大きく分けて3部構成の映画となっていて、

まず、第一の主人公として登場するのが、良い人面させたら右に出るもの無しの妻夫木聡くん演じる田原秀樹と結婚したばかりの秀樹の新妻である香奈(黒木華)。

 

いたって普通の結婚をした筈のふたりが、実家の飲みの席で、”ぼぎわん”の伝承に触れた事と、香奈が懐妊して、第一子である知紗ちゃんが産まれて来たことをきっかけに、

徐々に家庭が崩壊し、奈落の底に真っ逆さまに堕ちていく様を描く。

 

第一部では”上っ面ばかりの軽薄な連中”、”現代人の抱える暗部””他人の不幸は蜜の味”とか胸くそな描写が延々と続くので、段々と「これはACジャパン(公共広告機構)の劇場版なんじゃないか」という錯覚に襲われてくる。

 

余談だけど、冒頭から三重の山々を見下ろす形で妻夫木くん達の乗る車に徐々にカメラが寄っていくんだけど、これって『シャイニング』のオマージュだよね、と思った。

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実家で”ぼぎわん”の夢を見たことがきっかけで、徐々に怪異に見舞われるようになった妻夫木君だったけど、友人の津田にV6のメンバーである岡田准一こと、オカルトライターの野崎を紹介してもらい、さらに野崎を伝って霊媒師兼キャバ嬢である女性、マコトに行き着く。ああ、ややこしい。

 

マコトのスピリチュアルパワーによって一度は危機を脱したものの、マコトの姉である琴子から「それはその娘の手に余る」と告げられる。

ちなみに琴子は警察や幕僚のトップに顔が利く、日本随一の霊媒師らしく、その姿は松たか子に酷似してるらしいよ。

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今作で観たベストオブ、松たか子を挙げると、

 

●クソ不味そうなラーメンをすすっても「ごちそうさま」はちゃんと言う。食に感謝。

●ノーモーションからのグーパン。素手で。

●ノーモーションからの突き落とし。

●画面上に映っているだけでにじみ出る、圧倒的”守護天使”感。

 

第二部以降は、琴子が登場したことにより、今まで脅かされるだけだった状態から一転攻勢、”ぼぎわん”への反撃に打って出ます。

 

遠くは沖縄から、”ぼぎわん”に対抗する為、各地の霊媒師同盟の爺婆や果てはJKが団地に集結し、装束に身を包む。なお、着替えはカプセルホテルで行う。(今作で一番感動したシーン)

 

このあたり、祈祷や霊媒を生業とするプロ達が集結する、というアツいシーンではあるのですが、SNS上では『シン・ゴジラ』っぽいと形容された下り。

捉えようによっては『平成狸合戦ぽんぽこ』のようでもあり、今作が荒唐無稽なトンデモ映画の香りを漂わせ始めた要因でもあったような気がしなくもない。

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遠方から駆けつけた三長老狸の図

ともあれ、遠路はるばる駆けつけた年長霊媒師軍団の行動も空しく、現地入りする前に不可解な事故に巻き込まれ、次々と命を落として行く。

タクシーの運転手に「観光ですか?」と聞かれ、「化け物退治さね!」とカラッと言ってのけたり、仲間が死んだ事を察知し、更に分散して目的地に向かうことを即座に判断した際に「せめて半分だけでも生き残れば何とかなるだろ」と淡々と手荷物をまとめて新幹線の車両を移動する姿に「何だかよく分からんが凄そうだ」というキン肉マン的凄み、説得力を与え、”プロの神職者”という印象付けを加えたのが、リスクでもありましたが、今回においては味として利いてると思いましたね。

 

なにより、カプセルホテルから起床して、そのまま装束に着替えるシーンや、「マンションの自動ドアの前に神職のおじさんが座している」という絵のパワーは凄まじく、第三部の団地除霊バトルはさながら大友克洋の『童夢』を思い出さざるを得ませんでした。

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ちょっと漫画っぽいキャラ付けと言えば、『貞子vs伽椰子』に登場する霊能力者、

常盤経蔵と珠緒コンビを思い出します。

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まぁ、霊能力者なんて現実世界ではどちらかと言えば、内心いかがわしいジャンルの方々ですから、どこか荒唐無稽にはなってしまうのかも。

 

琴子が「これ、除霊効果もあります」と言って装束にファブリーズを吹いているシーンがもよかったな…

 

 

『来る』はホラー映画の体裁はしていますが、実のところ徹しているのはホラー描写であって、本質的な部分では「家族」や「児童虐待」「現代の病理」について考察した作品であったと思います。

 

これは”妻夫木君が実家に帰って”ぼぎわん”の事を改めて考えるまで、なぜ今まで無事だったのか”という問いに対しての間接的な答えになるのですが、

まずは”ぼぎわん”は概念であり、概念は忘却の前では意味のないものであること。

妻夫木君が「子供が出来て親になったこと」が最大のきっかけです。

 

幼少期にさらわれた知紗ちゃんに「あんたは嘘つきだから連れて行かれる」と脅しを掛けられたり、琴子曰く「あれは死に惹かれる子供の魂に強く共鳴する」など、”ぼぎわん”の対象になる理由は酷く曖昧です。

単純な「子供をさらう妖怪」としてスタートしたはずの妖怪が、いつの間にか少女の孤独に結びつくのは、理由の説明としてはやや無理があるとは思いましたが、逆に”ぼぎわん”に狙われないためにはどうすればいいか、

答えは冒頭で既にマコトによって示されており、「家族を大事にすること」しか無いのだと言います。

この言葉を「子供の産めない体」であるマコトが言う事で、ラストのあのシーンに繋がるのでしょうが、なにより、マコトは「真・誠・実」であり、最後には子を産めない体で子を授かる「マグダラのマリア(聖女)」です。

 

”ぼぎわん”は民族学的には食いぶちを減らす為、殺されていった赤子や子供達の怨念であり、殺した大人達の精神的なスケープゴートであることが作中で言及されますが、

同時に、現代における「大人の都合で子供を振り回す親」の「親」に対するアンチの存在とも捉えられます。

 

劇中の妻夫木君は母子ほったらかしで、子育てブログに夢中。

外面はイクメンを気どっていながらも、周囲からの尊敬を集めることだけが目的のチンケな男で、妻の香奈はいけない団地妻よろしく、夫の友人とのセックスにかまけています。家庭が崩壊寸前のところでついに”ぼぎわん”が現れます。

 

結局、”ぼぎわん”の仕業かと思われた襲撃も、ヒステリーを起こした妻・香奈による自演であったことが明らかになりますが、妻夫木君はこの日を境に、”ぼぎわん”の存在を強く意識し、比例して”ぼぎわん”の存在も強く、くっきりした形として現れます。

 だから、”ぼぎわん”が妻夫木君の前に現れる際は「お前の本性は嘘つきだ」と言った死んだ少女の姿を借りているのです。死んだ少女(知紗ちゃん)は妻夫木君のトラウマであり、否定したい自らの姿の鏡映しなのかなと。

 

同時に、妻・香奈の前では”ぼぎわん”は母親の姿で現れます。

「ダメ親・淫売・クズ・女としての終焉(老い)」香奈がこうなりたくないと恐れる姿を母親に見ているからです。

 

こうなってくると、”ぼぎわん”は殺されていった赤子や子供達の怨念、という存在定義があやふやになってきます。中盤からは「罪を犯したとされる大人を裁く処刑人」と化した”ぼぎわん”が最後にたどり着くのはオカルトライターの野崎で、彼は過去に妻を中絶させた経験があり、死んだ赤子や子供達の恨み節、という意味では野崎こそ”ぼぎわん”の犠牲者であるべきですが、野崎は直接のターゲットにはならず、終盤の神事まで「外野」であり続けます。

 

野崎は勿論、今作の主人公である以前に、「後悔に苛まれている人物」という特性を帯びているからです。ある意味、主人公の特権とも言えますが、序盤の妻夫木夫妻やその友人達、イクメン友達連中の描写は、中島哲也監督お得意の「戯画化された人物造形」「風刺画的現代人」に溢れ返っていて、上っ面はこ綺麗だが、内蔵にはたっぷりと贅肉がまとわりつき、心は空っぽ。悪循環に陥っても改善しない。その中で、薄汚れた世界を直視せざるを得ないライターという仕事に身を投じて、自らのアイデンティティに揺らぎ、清算できない過去に苛まれている野崎とマコトは、今作においては「生きるに値する人間」側と言えます。

 

柴田りえ演じる霊媒師の言葉における「最も暗闇の瞬間で頼りになるのは痛みだけ。痛みを受け入れなさい」という発言からも裏付けられます。二人は上っ面で生きて行く事を拒否し、一度、人生のドン底に触れ、浮上した人間であり、今作の基準では二人が「善の側」で居られる根拠となっています。

 

映画『来る』での”ぼぎわん”とは何か、

『来る』は『ローズマリーの赤ちゃん』や近年では『ババドック』などで描かれた、出産や育児ノイローゼや人間関係の軋轢から生じる社会的病理を”化け物”という捉え直し暗示した、社会的な警報という側面なのかなと。

 

インターネットの発達によって、便利になった反面、多くの答えや虚像に踊らされず、ねじ曲げられずにに生きることの困難さという側面。

他人との距離を間違わず、命を尊むこと。逃避せず、己と向き合う事の重要さ。

映画『来る』で描かれているのはこうしたそれぞれの側面の集合体であると感じました。

 

”ぼぎわん”とは、上記のように痛みを受け入れない人間の前に現れる、処刑人そのものでなのかなという結論です。

 

長くなってしまいましたが、僕は率直に楽しめました。トンデモ映画っぽさもあって。 

中島哲也監督の通例の作品群を観ていると、やはり「風俗嬢」とか「ヤンキー」とか、

アンダーグラウンド寄りの立場の人間の肩を持つ傾向が強く、彼ら也の”過ち”というものを克明に描けない、というのが人としての振り幅に欠ける。そんな印象です。

ヤンキーが雨に濡れた子犬を助ければ、免罪符となる理論と同じですね。

 

劇中の判断基準では、過去に辛い思いをして、以降は分かり易く薄汚れた格好をして、「私、落ちぶれましたよ然」な人間が「善」とされていますが、

 

現実には、親が死んだ翌日にもスーツに袖を通し、満員電車に揺られ出社する人間が居て、感じる痛みが重要なら、なぜ彼らには痛みが分からないと言い切るのだろう。

 

それでも、同氏の映像化のセンスというのは本当に見事で、「いるいる、こういう奴」と思わせる漫画力にも似た人間の戯画化はもちろん、

圧倒的なパワーを感じさせる画作りには、今作も感心し通しだった。

今作の柴田理恵は、隻眼片腕の霊媒師っていう最強にイカしたポジションで出てくるから必見。

 

あと、スーパーの店長役の伊集院光、「性格悪そうに見えるけど、やっぱり性格にちょっと難がありつつ、決して良い人ではない」っていう絶妙な役を演じているので、

同じく、これまた必見。

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