感想『ジョーカー』理屈なんてないよ。だって狂ってるからね。

f:id:shin_tayo:20191007013650j:plain

人生のとある節目に出会う映画は、時に良くも悪くも、その後の人生に重大な影響を及ぼすことがある。

 

今作のモチーフとなった『タクシー・ドライバー』などはまさにそういった類の”劇薬”指定の映画で、

精神疾患を抱えた1人の男が、社会や異性との接点を失った果てに暴走し、やがて出会った「娼婦の少女を救う」という大義名文を得て、ギャングの巣窟に単身乗り込み、ギャング共を次々と私刑にしていくわけだが、

主演のロバート・デニーロのまさしく狂気に肉薄したビジュアルと演技、雨に濡れたNYの夜景をバックに妖しく輝くイエローキャブという映像美も合間って、一種の狂気への憧れと共感を抱かせる、危険な出来栄えであった。

 

今作、『ジョーカー』もはたして、多感な10代の頃に出会っていたなら、

恐らく今作の持つ妖しさにあてられて、夜な夜な顔を白に塗ったくり、クネクネとリボルバーを握りしめて、鏡の前で踊っていたかもしれない。

(以下、ネタバレあり)

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=C3nQcMM5fS4

 

まずは主演のホアキン・フェニックスの放つ、明らかに「ヤベー奴」とわかるビジュアルである。いつものことながら、狂った役柄をやらせたら、随一であろう怪優が、狂気そのものを演じているのだから、そもそも映画として面白くないわけがないのだが。

 

ホアキン・フェニックス演じるアーサー(ジョーカー)はこれまでのジョーカー像とは異なり、

元ネタの1つとなった『バットマン:キリングジョーク』を思わせる、売れないコメディアンという設定で、いわゆる凡庸、かつ絶対に大物にはなれない、ということが察せてしまう、「歩く悲壮感」そのもの。

背中の骨が浮き出るほどに減量を重ねたホアキンの痛ましい肉体が、

「常に何かに飢えている」という、優しくも恵まれない青年の飢餓感と焦燥を体現していて見事だ。

 

今作の『ジョーカー』はあくまでも、これまでに生産された『バットマン』の系譜のどれとも異なる、全く別の世界線として描かれたドラマであることは、

監督を務めたトッド・フィリップスからの発言でも明らかだが、

決してアメコミ原作という点をおざなりにしているわけではない。

作品の全体的な雰囲気の特徴となっている70年代後半の「アメリカンニューシネマ」を想起させるような仕掛けや小ネタを盛り込みつつも、しっかりとアメコミファンが喜ぶような眼くばせも忘れない。

 

 

2008年公開の『ダークナイト』における”ジョーカー”が、同じく精神的に疾患を抱えつつも、基本的には理知に富んだ、”悪のカリスマ”であり、犯罪におけるプロフェッショナルを自負するヴィランとして描かれていたのに対し、

今作のアーサー=ジョーカーは、同じく精神的な不安定さを抱えながらも、

次第に他人の命に手をかけていくまで、その暴力が決して表立って発露することはない。

理不尽な会社からの通達に腹を立てても、裏路地のゴミを蹴ったりする他に手段を持たない、弱々しい只の男なのだ。

 

絶対的な正義側の狂気の代行であるバットマンがまだ存在しない、今作の世界線では、ジョーカーが対するのは社会や自らに降りかかる不条理そのものというわけだ。

 

ヒース・ジョーカーの言を借りれば、自らを「上等な悪党」と自負していた『ダークナイト』版ジョーカーとは全く異なり、「自らの悪意に自覚がない」という、ある意味最も厄介で、近親的な狂気の体現と言えるかもしれない。

 

アーサー(ジョーカー)が徐々に自らの内に秘めた欲求を爆発させ、ロッキーステップのネガとも言える、印象的な長い階段の上から煙草を燻らせながら、ステップを踏みつつ踊り降りて来るシーンは、今作のハイライトとも言えるかもしれないが、

では、実際に自らを茶化そうとしたロバート・デニーロを射殺するまでに、

アーサーはジョーカーとなり、一体何を叶えたのか、という話になる。

 

元々、金銭的な面で裕福とは言えなかったアーサーだが、今作で描かれるのは、

いわゆる銀行襲撃といった、絵に描いたような悪党の単純な欲望ではなく、

ひとえに「承認欲求」という一点に尽きる。

 

ついには自ら手をかけてしまう母親や、自分の父親かと思った男、全てが妄想だったアパートの同居人である未亡人、果ては憧れだったコメディ番組の司会者など、

「母、父、恋人」の愛やその不在を埋める代理を求めた人々からことごとく見放され、

社会的にも無かったことにされようとしているアーサーにとって、

誰からも自分の存在を容認されない、という自体は、気が触れてしまうに相応しい理由だったのだろう。アーサーにとっての「ジョーカー」とは、

耐えられないほどの苦痛や不条理に対抗するには、もはや笑うしかない

という、行為そのものの”代名詞”だったように思える。

 

そうした意味では、ジョーカーになってしまったが、別の意味ではジョーカーになりきれなかった、至って凡庸な、不運な男の末路とも言える。

 

その幼稚さを補完するかのように、劇中、アーサーは耐えず煙草を口にしている。

アーサーにとってタバコは自らが「大人」であることを主張するためのツールであり、同時に、子供じみた欲求を抱える成人男性の「おしゃぶり」の役割を果たす小道具なのだ。

 

時かねてから富裕層や社会的な不遇に腹を立てていた暴徒の群れによって、「貧困からの怒りの代弁者」として祭り上げられるアーサーだが、

彼らにとって、「ジョーカー」とは自らの鬱憤を晴らすための”スケープゴート”であり、そこに果たして、”悪のカリスマ”としての「ジョーカー」が存在し得たのかは、

甚だ疑問の残るところである。

 

要約していえば、『ダークナイト』のジョーカーは揺るぎのないアイコンであったならば、今作のジョーカーは「気が触れて何もかもがちゃんちゃら可笑しくなってしまえば、なんだって出来るという、行為そのものを指す」くらいの差があるのではないか、ということだ。

 

今作のジョーカーが悪党のカリスマとしては、あまりにも平凡な男で、その生い立ちにも納得してしまうがゆえに、恐ろしくもある。

 

人間、いくら”気が触れた”といっても、完全に狂気に陥るのはそう簡単なことではない。

f:id:shin_tayo:20191007024119j:plain

 

常識な周囲の目など、怒りや悲しみのあまり狂いたくなっても、そう簡単に自我を失うことなどないからこそ、「ジョーカー」のように、狂気に身を任せ、踊り狂ってみたくなる。ゆえに「ジョーカー」に憧れ、渇望するのだ。