極私的偏愛映画⑱ 『アンドリューNDR114』時にはお涙頂戴も悪くない
つい先日、スピルバーグの『A.I』が好きかどうか、という話をした。
個人的には嫌いではないのだが、なにぶん当時でも『ニューウェーブ』的な視覚効果やガジェットに見慣れてしまったというのと、痺れるような映像美に関して言えば『ブレードランナー』『JM』で十分ではないか、という理由である。
代わりに”これが好き”と挙げたのが『アンドリューNDR114』だったのだが、
その時に口にするまで、自分がこの映画を好きだったということをすっかり忘れてしまっていた。
この映画を見たのは劇場で1回、TVの再放送で1回の計2回であるが、
お話がこれでもかと言うくらいわかりやすく、思い返して解説する際に、スラスラとあらすじを順を追って説明しやすく、「ヘえ〜、今度見てみようかな」と一定のウケも良かった。
原作はアイザック・アシモフによる『200周年を迎えた男』だが、
今作は一般大衆向けと言うこともあり、人間とロボットの交流という要素がより強調されて、マイルドで観やすい仕上がりになっている。
メガホンを取ったのは我らがクリス・コロンバス。
え?コロンバスをご存知ない?
家政用ロボットが当たり前になった近未来、ある人ある一家に一体のロボットがやってくる。アンドリューと名付けられたロボットは、優しく理解ある家庭に迎え入れられ徐々に人間らしい感情を会得していく。
同時に、アンドリューの優れた木工技術を感心した主人は、アンドリューにいくつかの工作をさせてみせ、その報酬を自分の講座を作って貯金しなさいと促す。
やがて所有者である主人が他界したり、可愛かった娘っこ(アマンダ)がしっかりイケメンをゲッチュしたりなんだりあって、アンドリューは貯めたお金を持ち、家を離れることで「自分の人生」を模索することにする。
作品自体は大衆向けといった感じで、笑いあり、涙ありといったバランス型の映画で、鑑賞後の余韻もあり、非常に観やすい仕上がりとなっています。
とはいえ、”人間”や”生命”といった定義をわかりやすく説いていたり、
それに対してのはっきりとしたアンサーは提示せずに、あくまでもアンドリューが様々な困難や挑戦を経て、人生を謳歌することに重きを置いて描いています。
『A.I』はやや暴力的であったり人間のエゴがむき出しになることで、相対的に”人間”とは何かという、問いに直結していたり、非生命体の少年型ロボの生涯を通して”自我”といった概念を暴き出そうといったアプローチでしたが、『アンドリューNDR114』は口当たりがひたすらにマイルドなため、教義的な模範のような印象を受けます。
ただ、どちらもその一生を描いているという点に置いては、徐々に外見や性格がアップグレードされていくアンドリューのほうが、絵面的にも変容があり、感情移入しやすいかもしれません。内容的にも、SF映画としてのアプローチが異なるだけで、
「来たるべき未来に際し、我々はどうすべきか」という、SFの定義からはどちらも正しい形式にまとめ上げていることは確かです。
今作はロビン・ウィリアムズが主演ということで映画自体に清涼感が漂い、この作品自体をより親しみやすい雰囲気にしています。
どちらも恐ろしく純粋ですが、ロボットにあるはずのない「セックス」という観点について、片やひたすらにドライに徹する『A.I』に対し、ロボット自体が性行為に自ら関心を持ち実践してしまうというやや踏み込んだ表現も、半ば『釣りバカ日誌』的な下ネタ感覚でサラッと処理する辺りも凄く良い。
序盤のアンドリューのロボット姿の造形は、『メトロポリス』のマリアへのそこはかとない原点回帰的なオマージュを感じますし、
『グレムリン』など、多くの特撮映画の制作に関わってきたコロンバスの映画プロップへのこだわりが今作でも感じられる。
地上波で洋画を流す機会が減りつつある昨今ですが、少なくともこの映画をテレビで2度は観た記憶があるので、かなり印象深い一作でした。
分かっているのですが、やはり観るたびにウルウル来てしまうのは、
この映画で描かれているのはどこまで行っても「人間の善意」の部分であり、
そうしたものを否定せずにやっていこう、という前向きな姿勢がアンドリューというキャラクター性そのものに付与されているのだからだと感じました。
こうした「良心」的な映画は時にハードさを売りにした映画や、難解さをウリにしたような映画の下に敷かれる風潮が強いですが、わかりやすくかつ、心の拠り所になるようなタッチの映画は、個人的には好きなので、より多くの人に観てもらいたいと思う次第であります。