映画『ジョーカー』に感じた違和感と道化師が象徴するもの

f:id:shin_tayo:20191020050030j:image

前回、観たばかりの『ジョーカー』 に関してのあれやこれを書き連ねたものの、

イマイチ、自分の中で自らから出た言葉、 感想が正しかったのかよく分からず、

 

なんだかモヤモヤとした霧立つ思いを抱えながらも、 今作を消化出来ないまま

公開から、早2週間が過ぎてしまった。

 

SNS問わず、各界から絶賛の声が寄せられてはいるが、

果たして僕にとって今作は何だったのか、 極私的に接してみようと試みた。

 

 

 結果的に言って、僕にとっての今作『ジョーカー』 の評価としては、

”傑作になれなかった良作”といった印象なのだ。

 

いかにもなマスターピース感、としては多少の中傷評価はあるものの、 やはり『ダークナイト』におけるヒース・ レジャー版のジョーカーの方が圧倒的な悪としてのカリスマ感を放っているし 、

毎年ハロウィンやコミコンの時期になるとヒース・ ジョーカーに扮してその仕草や喋り方、スタイルに至るまで、 真似をするものが多く出現する理由も頷ける。

 

要するに、ヒース・ ジョーカーの誇示したヴィランとしての存在感というのは、

”純粋悪”そのもので、劇中の言葉を借りるなら、「 世界が燃え上がるのを見て楽しむ連中」、 まさに悪魔のそれなのだ。

 

IDも持たず、顔の傷の由来も明かされない。ともすれば、 それは誰もがジョーカーに成り切るに足る、”余白” そのもの。

 

金に突き動かされるわけでもなく、誰かの指図も受けない。

揺るぎないロックな精神を持ってして、周囲を欺いてみせる” 誰でもない何者か”というヴィラン像は、 出自も動機も明確な富裕層にして高潔な精神の持ち主であるバット マン=ブルース・ウェインとの両極の存在となっており、 よく出来たキャラクターの相関図ではないかとただ感心するばかり だ。

 

 

今作の『ジョーカー』について、様々な評価が飛び交っている。

 

それは、今作が観る観客によって、 方向を変える性質を帯びているからだと、

鑑賞して間を置いた今でこそ、率直に感じることなのだ。

 

今作の感想として大きく分類すると、 アメコミ実写化としての完成度を褒め称える意見。アーサー= ジョーカーとしての物語として受け入れ、 作品の破滅的な部分に共感を示す意見。または、 娯楽作や映画という切り口で、 ただホアキンの演技力を賞賛する意見など、様々だ。

 

正直なところ、僕はこの作品を大いに楽しんだ反面、 やや物足りなさを感じてしまった。

 

今作が「全てジョーカーの妄想やジョークであった説」 という意見もいくつか見たし、

劇中に何度か登場し、最終的にアーサーに手を貸し、 ブルースの両親を殺害に至った犯人こそ、のちの”ジョーカー” なのではないか、という意見もあり、

なるほどそれは面白いとは思ったのだが、イマイチ乗れなかった。

 

貧困の中から生まれた怪物が富裕層を脅かすという構図や、まさにデモに沸き立つ香港や2008年から続く世界的な恐慌など、

本作が背負って立つ命題は多く、けれど

今作で今ひとつ太鼓判を押せなかったポイントとして、 設定やキャラクター造形ではなく、 その描き方や演出にあると考えた。

 

重要なポイントとなるのは、やはりアーサー・ フレックという、潜在的な暴力衝動を抱えた人物そのもの。というよりも、” 潜在的な暴力衝動を抱えている”だけなのだ。

お世辞にも、その振る舞いは知的とは言い難いし、 その奇抜でスタイリッシュなスタイルとは裏腹に、 どうにも他人を欺く知性や、 底抜けの悪意といったヴィランとしての輝きにかける。 要は憧れる対象ではないのだ。

 

物語終盤、(妄想かどうかは置いておいて) 憧れだったテレビ司会者のショーに招かれるが、案の定、 自分を茶化されることを承知で単身乗り込んでいくわけだが、

この一連のシーンでは、すでにアーサーは”ジョーカー” として覚醒しており、

ひどく他人への影響というものにたいして更に無頓着になったイメ ージだが、

件のショーに出演する以前から、観客や司会者、 同席したゲストに至るまで、

最後までアーサーが懐から銃を取り出し、ロバート・ デニーロの眉間に一発お見舞いしてもなお、 それら全ての優位に立ったようには見えなかった。

 

親に図星を突かれて駄々をコネ出す子供のようでもあり、 病的にも見えるが、

あくまでも”心の均衡を欠いた男”であって、”悪党” とは一線を画す存在のように思えたのだ。

 

おそらく、ジャック・ニコルソンやヒース・ レジャーのジョーカーならこうはならなかったと思う。

 

別段、それが悪いといっているのではなく、 歴代のジョーカーというのは、

おおよそが悪趣味なジョークや暴力で持って、 他者のマウントを取ることを生きがいとしているわけなのだから、 今作のジョーカーはそうした意味でも奇異である。

悪い意味で、ジョーカーとなる以前と以後で明確な差を感じなく、

何より、自らにジョークのセンスが全くない、 ということを自覚していない

というところが逆に狂気じみていて良いのだ。

 

個人的にこういうカットや演出があれば、 もっと盛り上がったろうと感じた部分は、

やはり、主人公がどういう人物であれ、 その変化を劇中の第三者のリアクションで見せて欲しい、 というところである。

 

もちろん、それに当たる展開はあった。

ピエロ仲間が家を訪れ、自分をハメた同僚に手を掛けるシーンだ。

”ジョーカー”に至るシーンには違いないのだが、やはり、 今作での最も印象的な、

「階段を踊り降りるシーン」の前後の文脈として捉えると、 やや弱い。

 

概ね、 今作では象徴的なシーンでのオーディエンスは文字通り観客に委ね るかのごとく、 アーサーが1人の瞬間を観客である僕らのみが知る”事実” として描かれていることが多い印象だ。

 

(だからこそ、今作がジョーカーの虚言説が濃厚になるわけだが)

 

例えば、スピルバーグなら、 登場人物の目の前で驚くべき出来事が起きている瞬間があれば、 必ずといっていいほど、その場にいた人物の顔(リアクション) を捉える。

 

そうしないと、その出来事がいかに大変なことなのか、 演出意図として伝わらないと危惧しているからこその演出テクニッ クなのだが、今作ではほぼないと言っていい。

というより、意図的にやっていないとも思える。

 

ゆえに、客観性のない、 極めて主観的な印象の羅列とならざるを得ないのだ。

 

おそらくそれらも含めて、製作陣の意図するところなのだろう。

いわゆるスピ演出の与える印象は、映画にとって「 100点の回答」になってしまうからだ。

登場人物が驚いていれば、やはり観客は「そうなんだ」と言って、 画面上で起きていることを製作者の思惑に則って受容しなければ、 ならないし、

そういう映画に、今作『ジョーカー』 をしたくなかったのだと感じた。

 

 

前回、感想記事を欠いた折、それを読んだ知人から、

主観性がないと言われたが、それもそのはずで、 今作は観客のメンタルや

”身の置き所”によって、多種多様に感想が変わる、 不定形の映画だからだと感じたからだ。

 

ただし、僕が今作で一番、 スクリーンの中に自分の居場所を感じたのは、

それまで肩をすくめて登っていた階段を、 全てを忘れるように階段で上機嫌にタバコをふかしながら、 踊り降りるシーンなのだ。

 

だが、しかし、それは果たしてジョーカー”だから” できることなのか?

という疑問符も浮かび上がる。

フットルース』のケビン・ベーコンとどう違うかと聞かれれば、

答えに詰まるが、つまりそういうことなのだ。

 

アメコミ映画である期待はしていなかったが、 残虐なピカレスクロマンを期待して劇場に足を運んだ身としては、 もう少しジョーカーと化してからの活躍を大いに楽しみたかったというのが、現状での本音だ。

 

それでも、ショットの美しさや、ホアキンの病んだ魅力。タバコの紫煙漂う排他的なNYの風景には惹かれるものがあり、

繰り返し観たい何かに溢れた良作には違いない。

 

余談ではあるが、トランプのジョーカーだけが何故特別なのか、という理由を調べた折、

王様を始めとする貴族や騎士の集まりの最中、唯一、身分を超えて王を茶化す権利を持ったのが道化師であり、ジョーカーなのだという。