※ネタバレ有り※ 感想『トイ・ストーリー4』複雑を極めた現代で、完璧に理論武装された秀作。〜ゆえに僕はまた観たいとは思えないのだ〜

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公開から1週間ほど経っていますが、初日に観ていました。国内では賛否が分かれているようですね。

なんとなく理由も察せますが、それはのちほど。

 

 

本業が忙しくなりすぎて、観れる本数がグンと減ってしまい、

「まずは話題作から観ておくか」と、ミニシアター系の作品をなかなかカバー出来ない日々が続いています。

 

いままでは、なるべく画像や動画をたくさん盛り込んだ記事を心がけていましたが、どうしても一つの記事を書ききるまでに時間がかかってしまうので、以降はテキスト中心に、なるべく摂取したものを整理して消化しつつ、書いていけたらと思います。

「こんな意見もあるのね」くらいのライトさで読んで頂けたら。

 

それではやっていきましょう。

 

 

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シリーズ最終作ということで、全体を一望してみると、『1』〜『3』は『トイ・ストーリー』という物語としてのおさまりの良さに感心する。

 

キャラクターの成長、なにより、”全編フル3D”という、1995年当時としてはあまりにも革新的すぎた『1』の映像作品としての大胆さ。

テクノロジーとしての延長線上でのせめぎ合いの中であまりにも、あまにりにも、『3』は必然的で納得のいくラストであったと、個人的には思っています。

 

おもちゃの『自由意志』や『アイデンティティの定義』という命題を問うた『1』から、以降の『2』、『3』に至るまで、そのテーマは数々の劇中における「人に尽くす事が、おもちゃにとって最大の幸福」という前提への異議申し立てを自ら行い、

より強固なテーマとして叩き上げていった感があります。

 

個人的には『トイ・ストーリー』は、子供が楽しめる作品でありつつも、

かつてフィギュアと共に幼少期を過ごした大人達にとっては”輝く思い出”でありながら、

もし、おもちゃが生きて感情があったら?

という理屈を叩き付ける。

自分たちはオモチャ達にとって良い持ち主だっただろうか」という自らの”原罪”について考えさせる、”大人のエンターテインメント”でもあり、

親と子、2つの世代に渡る永遠に続く記憶を描いた、非の打ち所の無い、完璧なシリーズだと思います。

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だから、『3』でアンディの手からボニーの手に、かつての友人(オモチャ)達が手渡された瞬間、”性別と世代をまたいだ継承が成された”と言いようの無い感動に襲われたし、

アンディのおもちゃとして、傍にいられてよかった」と、寂しさを感じながらも、最後までアンディに対してエールを送り続けたウッディの尊さ

割り切った清々しいウッディの表情を見た瞬間、エンドロールが流れて、劇場から帰路に着くまで嗚咽と涙が止まらなかった。

 

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劇中のアンディと同じく青年後期となっていた自分にとっては、なにかが”救済”されたような気がしたんですよね。「あまり大事にしてあげられなかったオモチャたちに許された」ように錯覚したんだと思います。

(自分はどちらかといえば『1』のシド寄りだったので、、、)

 

アンディには父親が居ない設定のようですが、要するに、

「ウッディ=父親=保護者=所有物」という、複雑なキャラクター設定のもとに、

 

母ちゃん、今まで苦労かけてごめんな。俺、母ちゃんの子供に生まれて良かったよ

的な、いかにも古典的なベッタベタな、ある種の”王道のドラマ作り”の遺伝子が流れているところが、何度も『トイ・ストーリー』を繰り返し鑑賞出来る、最大の理由でした。

 

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前置きが長くなりましたが、『4」の話です。

 

アンディの元を離れ、新たな持ち主としてボニーの元へやってきたウッディ一行ですが、オモチャチームのまとめ役としてシリーズを牽引してきたウッディも、

そこは”男の子向けオモチャ”であるがゆえに、次第にボニーの遊ぶオモチャには選ばれなくなり、クローゼットで補欠選手的な立場に甘んじる日々。

 

『1』〜『3』を通してアンディに宝物のように大事にされたウッディも、まだ歳のいかないボニーにとっては”いらないオモチャ”。忘れられた存在になっていた。

 

(この時点でもう文句を言いたいが、キリがないので先に進もう)

 

とはいえ、”オモチャは持ち主の喜びの為に居る”と信じて疑わないウッディは、

忘れられても、常にボニーの事を第一に考えて行動します。

初めての幼稚園への登校日にグズったボニーを見かねて、リュックに忍び込んでしまう。

慣れない環境で友達もいない孤独に堪え兼ねたボニーは、ウッディがあらかじめ用意したゴミ箱から漁った廃材で、自分だけのオモチャ=友達を作り上げる。

 

ボニーのリュックと共に帰宅したウッディだったが、ボニーの作り上げたフォークのゴミから生まれたオモチャをフォーキーと名付け、「友達のいないボニーにはフォーキーが宝物なんだ」と言い、唯一残された”父親=保護者”としての使命として、フォーキーを守り続けることに。

(ゴミ由来だからか、常に自殺を図ろうとするフォーキーを、毎度のように阻止するウッディ、というシーンは苦しくもあり、やっぱり可笑しいシーンに仕上がっていて、

やっぱりピクサーは上手いなぁとつくづく感心した)

 

フォーキーはビジュアルとしては、まぁ以下のようなものなのだが、

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出自がゴミという事もあり、パーツは直ぐ取れるし、腕はズルズル落ちてしまう。

先述の通り、常に「死なせてくれ(ゴミでいると安心する)」と連呼する。オモチャと呼ぶにはあまりにも不安定さの伴うキャラ設定になっている。

 

そもそも、”オモチャ”に魂が宿るということを大前提としたシリーズで、

どこまでがオモチャで、例えば、持ち主がフォークを友達と認識したら、それには魂(アニマ)は宿るのか?

という作り手側の問いかけはあまりにもギリギリの倫理観を攻めすぎているのと、

●フォーキー=少年〜青年

●ウッディをはじめとする『1』からの主要メンバー=青年後期〜中年

という役割どころをになっている今作において、

すぐに自殺を試みる精神不安定な若者と、それに振り回される大人」という図式は、

あまりにもゼロ年代の世相を反映しすぎていて、それを天下のディズニー作品としてやってしまうのだから、恐ろしい。

 

ともあれ、とうとう旅行先のキャンピングカーから身を投げてしまったフォーキーを追い、どうにかボニー達に追いついたウッディだったが、ふと目に入ったアンティークショップで見覚えのあるランプシェードを見つける。

 

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それは、『2』以降で全く言及のなかった恋人(?)のボー・ピープのランプシェードだった。暗闇が怖くて眠れない妹の為、部屋を明るく照らしていたボーだったが、『4』の9年前に知り合いの手に渡り、離ればなれとなっていたのだ。

 

どうしても離ればなれになったボーと今一度、再会したい一心のウッディだったが、アンティークショップの主である、ギャビーギャビーに言葉巧みに誘い出され、危うく体の中にあるトーキング機能を奪われそうになってしまう。

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ギャビーギャビーもまた、ウッディと同じく1950年代のおもちゃで、自身のトーキング機能はすでに劣化によって失われているが、ショップにやってくる女の子に買われてもらうため、ウッディのトーキング機能が欲しい、というのだ。

 

間一髪のところを、颯爽と現れたボーに救出されるウッディ。

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久々に再会したボーは、いかにも女性的だった印象から、戦うヒロイン然の外見に変貌を遂げ、言動もやや戦闘的になったボーにウッディは困惑する。

 

ある時期から人間の所有物であることを放棄したボーは、ウッディに対して、

世界の広さ、「迷子のおもちゃ」であることの自由さを説く。

対してウッディはボーに対して、

アンディの妹が夜、寝付けるようになったのは、君が優しくランプで照らしていてあげたからじゃないのか」という、オモチャ本来の役割を改めてボーに問う。

 

ウッディが、ほぼ役割を失ったオモチャに成り果てたことを見抜いたボーは、自らと同じく「迷子のオモチャ」になることを勧める。

一方でギャビーギャビーのとらわれの身となってしまったフォーキーを救う為、

心にわだかまりを残したまま、ボーとのフォーキー共同救出作戦へと乗り出していく、、、

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というのが『4』のおおまかな、あらすじ。

 

旧作のキャラクターの再登場と変容、また、新たなキャラクターが既存のキャラクターの役割を引き継ぎ、鏡映しになっている点など、今作では近年のディズニー作品の傾向になぞらえつつも、きわめて高度に論理武装がなされている。キャラクターの物語としてのフィナーレとしてまとめあげているのか、ひとつひとつ取り上げたい。

 

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まず、『2』から『4』にかけてで、大幅なキャラクター修正のかかったボー・ピープに関して、

これは明らかに近年のディズニー作品の傾向の一つとして顕著な、

 

◎男や恋愛ばかりに依存しない

◎めっぽう強くて、タフなヒロイン像

◎ありのままの自分を通すことの尊さ、自由意志の強調

 

の3つの精神を反映した設定になっている気がしました。

ボーは『1』の頃からおしとやか、という訳ではなく、ウッディを押し倒してキスをしたり、時折ウッディを挑発し、「男の自立を促す良い女」といった印象だったのですが、今作でのボーはいわゆる、現代での”ウーマンリブ”である「ミートゥー」を代表とする、反発を恐れずに声を上げるキャラクター。別作品からやって来たような存在です。

 

それは、『トイストーリー』の立ち上げ人である、ジョン・ラセターが社内女性スタッフへの度重なるセクハラやパワハラにより、会社を追い出された現実世界と妙にリンクしてしまいます。

 

ボーのキャラクター性として肝心なところは、彼女が単純なバービーやリカちゃんのような”女の子向けトイ”ではなく、あくまでも”陶器製”であるがゆえに脆く、かつ只のランプの飾りである、という点です。

脆さゆえに、今作でも折れた腕をテープで継ぎはぎしており、ランプの下でホコリを被るだけの日々に嫌気が差した、と言及します。

 

定められた役割や立場を捨てて、自らの自由意志で行動する存在であるボーは、

アナと雪の女王』におけるエルサであり、ウッディの抱く古風な”オモチャ論”を壊滅的なほどに揺さぶる存在です。

要は”社会の辛酸を舐めた女”になったボーにとって、ウッディのスタイルは閉鎖的で献身的、独善そのもので、イラつくわけです。

それでも、ウッディの思想や人格を全て受け入れた上で手を貸してくれるわけですから、やはりボーは”良い女”なのですが。

 

興味深いのは、『4』におけるボーとウッディの関係性、というのは、

『アラジン』における自由奔放なアラジンと、家に囚われの姫であるジャスミンの関係性を、そのまま男女の役割を交代させて描いている点です。

 

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有名な曲である『a whole new world』は、「こんな世界、知らなかった」という、

ジャスミンの喜びの歌でもあります。

今作のウッディはヒーローでありながら、ヒロインとしての役割をこなし、新たな価値観と古い仁義の世界、どちらを選び生きるのか、という二択を迫られる事になるわけです。

 

それに追い打ちをかけるように登場するのはギャビーギャビーです。

彼女は今作では一応、ヴィランの役に収まっていますが、本質的には「アンティークショップを訪れる女の子に選んでもらいたい」という一心でウッディのトーキング機能を付けねらっています。

 

それはウッディが常に感じていた、”オモチャのあるべき姿”であり、ギャビーギャビーを否定することは、己のアイデンティティを否定する事になる。

ボーが否定した”誰かの所有物になること”の善なる面を象徴している、まさに鏡写しです。

結果として、ウッディはギャビーギャビーに自らのトーキング機能を摘出し、彼女の願いを叶えてあげようとします。

ところが、現代の女の子が1950年代のアンティークドールを欲しがる訳も無く

ギャビーギャビーは無惨にも箱の中に投げ入れられてしまう

 

見かねたウッディは、彼女に持ち主を見つけてあげるため、同行を提案し、

ほどなくして、遊園地で迷子だった女の子の心の支えにになってあげるよう促し、手を貸す。

無事、迷子の子のオモチャとなれたギャビーギャビーの顔には、物語冒頭のような険しさは無く、ただ安らかさだけがありました。

 

それを見たウッディは、かつての仲間達に別れを告げ、ボーと共に”迷子のオモチャ達”のために持ち主を探してあげる旅に出る事を決意し、トレードマークだった保安官のバッジを妹分のジェシーに譲り渡します。

(それを暗示するかのように、冒頭でボニーがウッディのバッジをジェシーにつけてしまうというシーンがある)

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これは、”西部劇”というジャンルが、現代においては「社会やに抑圧された女性が立ち向かう」というテーマに基づいて、徐々に男性主体の娯楽ではなくなりつつあることへの暗喩だと、個人的に感じましたが、なにより、ウッディが後腐れ無くボニーの元を去り、『a whole new world』を生き抜くフィナーレを飾る為の”継承”にあたる行為なのです。

 

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結論として、『トイ・ストーリー4』という作品は、表題にも書いた通り、

複雑を極めた現代で、完璧に論理武装され尽くされた秀作といえるでしょう。

 

男性的な古い価値観に基づくことも否定せず、かつ、「女性がありのままに、

自由に生き方を決めていいんだ」という、現代的で前向きな発想とも付随しますし、

なにより、「人間とオモチャの関係」という枠組みから外れ、

ウッディの”一人の人間の受難と再生”という物語に舵切りをしたことは、10年以上続くシリーズの、ひとつの終着点として、非常に攻めた作りになっている事は評価すべきです。

 

ですが、当然ながらやはり、あれほど完璧な着地を決めた『3』から考えると、

蛇足感は拭えないし、不自然なところも多々あります。

 

 

◎ボニーのウッディの扱いについて

年端のいかない女の子にカウボーイの人形を渡して「これで飽きずに遊べ」と言うのは

無茶があるのは承知ですが、『3』でのアンディからボニーに行われたのは”世代の継承”であったはずで、ボニーも偶然見つけたウッディを「あたしのカウボーイ」と愛着もって接していた筈なのに、『4』の終盤ではウッディが居ない事にも気がつかないのはいかがなものか。お前、本当、アンディに謝れと言いたくなりましたよ。

 

◎仲間達との絆について

元々、ウッディはやる時はやる男ではありましたが、『1』〜『2』までのウッディはお世辞にも良いリーダーとは言えませんでした。

ガバナンスはダメダメだし、仲間内で信じきってくれるのはボーとスリンキーくらいで、信用の無いダメ男という印象でしたが、『1』でのバズとの確執を経て、

『2』でレアオモチャとしての生き方を諦めて、アンディのオモチャである事を選んだり、徐々に生き方の据わった男としてリーダーシップを発揮するようになります。

 

”誰かの所有物であることを否定した完全なるヴィラン”である『3』の悪役、

ロッツォとの対立の際には、ゴミ処理場の溶鉱炉を目前に、死を覚悟し互いの体を寄せ合う。それまで、なんだかんだ言って軽薄な連中とつるんでいる印象が強かったので、このシーンでは驚くほど手に汗握ってしまった。

 

ゆえに、死まで覚悟した瞬間を経た仲間との別れにしては、今作は余りにも薄味で、本当ならば、個別にそれぞれ別れの言葉があっても良かった筈です。(アンディはそれができていたのに…)

そうした意味でも、今作はウッディ一人に焦点が寄り過ぎていて、『3』で完成した、

引退老人の結託”のような風情をないがしろにされている気がしました。

 

(信頼できるがゆえにボニーを任せられると判断したと捉える事もできますし、ウッディの選択を尊重したとも解釈出来ますが、もっとここで泣かせられたはずだと、つい欲が出てしまいます)

 

◎クドいほどの”ありのまま”推し

ボーの心境の変化は、経緯を考えると多いに納得出来ますが、それはあくまでもキャラクターの内面の話で、

創作的なところでは、あまりにも近年の”ポリティカルコレクト”を意識しすぎていて、

個人的には疑問でした。

ディズニー作品は全世界で観られる規模の超大作ですから、万人が納得するような理屈でもって、観客にある程度配慮する立場なのは分かりますが、

果たして、これまでの女性は「ただ弱いだけ」の存在なのでしょうか?

 

というのも、『トイ・ストーリー』という作品自体が、今作『4』を除いて、

常に”差し出す側”と”差し出される側”との間に行われる、

奇妙な幸福論の物語だったからに他ならないと思えるからです。

 

前述で”オモチャ”に魂が宿ると書きましたが、今作でのオモチャ達はある意味、ロボット的ともいえます。主人の為に生まれ、その身を捧げ続けて、その役割を果たした瞬間に生涯を閉じる尊い存在です。

くれぐれも誤解して頂きたくないのですが、それが「最上級に偉い」という訳ではありません。むしろ、現代ではボーの主張が正しいでしょう。でも、今作ではそれを否定もしていませんし、ボーもある面での正しさを理解しているからこそ、最終的にウッディに手を貸すのだと思います。

 

ですが、”献身し続けて、最後は報われる”という構造の話は、合理的かどうかはさておき、長く行われてきた”ドラマ表現”のひとつであるし、現代ではやや否定されがちがゆえに、”ファンタジー”として観る事が出来る、というのも映画ひとつの役割ではないでしょうか。

 

日本で馴染みが深いのは、ベタな親子ドラマにおける「ありがとう両親」的な側面で、

苦労や育児の果てに、やがて子が成長し「ありがとう」と述べる事でそれまでの全てが救済される、というのは実に風情があって尊く美しいと思いますし、

何より、身を捧げ続けてきた人たちの労を、誰かが評価して、労ってあげるのも、

立派な社会の役割では無いでしょうか?

 

女性本来の強さは、何もジャンヌ・ダルクのように矢面に立つことばかりではなく、

”美しさ”そのものだったり、男性の視線に晒されながらも、時に”女”という武器を用いがららも、したたかに生きたり、内面の強さだったりと、もっと色々あると思うのですが、

今作では少し”ありのまま論”推しが強すぎる気もしました。

(そもそもアンディからボニーに継承が行われている時点で性別を超えた継承は済んでいる筈で、”それが上手く行かなかった”というなら『4』は根底からなにか間違っていると思うのですが)

 

今作ではとにかく”正解を行こう”とするあまり、設定にしろキャラクターにしろ、脱構築

先回りしての論理武装が悪目立ちしていて、故に否定する箇所もないのですが、

逆に大きく肩入れするポイントも無かった印象です。

 

そこからは、大きな声で間違った事をいったり、クリエイターの主観で物作りが出来なくなってしまって来ている、ディズニーという「夢を切り売りする世界的大企業」の歪みが見えるようです。

 

 

そもそも、前述の「ありのまま論」にせよ、「我思う、ゆえに我あり」のような話にしろ、「今更、トイ・ストーリーの冠を使ってやる意味があったのか?」という疑問ばかりが残ります。

 

なぜ、切なさと喜び、様々な感情や経験を得て、新たな主人の元にたどり着き、最高の現役引退と、即復帰を迎えたウッディたちを呼び戻して、”人間のエゴ”を象徴するような話を付け加えたあげく、結局オモチャの幸福論を反復しているのか、

全く理解に苦しむのと同時に、『3』で終わっていれば、「きっと、ボニーがアンディの精神を次いで、ちゃんとオモチャを大事にして次の世代にバトンを渡してくれるに違いない」としみじみ妄想にふける事もできたのに、

 

ウッディよりフォークが大事とか、そりゃ、

はああああああああああああああああああああああああああんんんんんんん?????

ってなりますよ。

 

僕はねぇ、ボニーが、『2』でジェシーを昔捨ててしまった女の子にならないルートを夢想していた訳ですよ。

 

でさぁ、あげる訳ですよ。娘か息子かに。

 

その時はアンディが考えたオモチャの設定にボニーの独自解釈も加わってて、

何だかよく分からない世界観とキャラ設定になってて。

 

でもそうやって、継承は行われていくし、

 

子供は自力で想像力を育んでいって、

人にも物にも優しくなれるんだ、

 

っていうさ!!!!!!!!!!!!!!

 

 

俺は!!!

 

そういう、いじらしくて奥ゆかしい

 

トイ・ストーリー』が、観たかったんだよ!!!!!!!!!!!