極私的偏愛映画⑪『Vフォー・ヴェンデッタ』全てが”アメコミ映画”として理想的なバランスで成り立った奇跡の一作。
2007年からのマーベル・シネマティック・ユニバースを始めとする、現在のアメコミ映画の台頭はさながら破竹の勢い、ハリウッド資本の幅を利かせた黒船来航である。
それは数多の外国産映画に対して、国内の港が開かれている証明でもあるが、それこそ『アイアンマン(2007)』までのアメコミ映画の需要と供給に関して、筆者が記憶するのは、強い飢餓感であった。率直にアメコミ映画に飢えていたのだ。
というわけで、今回は反社会的思想犯を主人公とした異色のアメコミ映画、
『Vフォー・ヴェンデッタ』を紹介するよ。
ちょっと画質は荒いけど、公開当時の日本版予告編はこんな感じ。
当時、予告編に使われていた音源が知りたくて調べた結果、とある方が日本ワーナー支部まで問い合わせした結果、「Busy Signal」というフリー音源を使用しているとのことで、「数多くの問い合わせを頂いておりますが、音源としての販売予定はございませんので、もうこれ以上のご連絡は控えてください」と丁重に連絡を頂いたそう。残念。
<以下Wikipediaより引用>
第三次世界大戦後。かつてのアメリカ合衆国が事実上崩壊し、独裁者アダム・サトラーによって全体主義国家と化したイングランド。
11月4日の夜、国営放送BTNに勤務する女性イヴィー・ハモンドは、夜間外出禁止令を破っての外出中、秘密警察ザ・フィンガーの構成員フィンガーマンに発見され強姦されそうになる。そこにガイ・フォークスの仮面を被る謎の男“V”が現れ、鮮やかな手並みでイヴィーを救った。そして“V”はイヴィーの目の前で裁判所の爆破テロを敢行する。
翌朝、出勤したイヴィーはBTNに現れた“V”の電波ジャックに遭遇する。“V”は1年後の11月5日に国会議事堂の前へ集まるよう国民達に呼びかける。フィンガー長官ピーター・クリーディーは即座に“V”の鎮圧を行うが、“V”はこれを切り抜けて脱出、重要参考人として手配されたイヴィーを「シャドウ・ギャラリー」へと匿う。
“V”は国民に現在の国家の異常さを訴えながら、BTNのプロパガンダ番組のキャスターでもあるルイス・プロセロ、英国国教会のアンソニー・リリアン司教、そして女医のデリア・サリッジといった、サトラーの党幹部達を次々と血祭りにあげていく。奇妙な共同生活を送る中でVに好感を抱き始めていたイヴィーだが、“V”の異常な行動に忌避感を抱いて逃亡。上司であるゴードン・ディートリッヒの元へと逃げ込むが、そこで彼もまた現体制に抑圧されたマイノリティである事を知る。
一方、“V”の目的を探る警察官エリック・フィンチは、彼の足取りを追う内に、現体制の根幹を揺るがす壮大な陰謀を知ることになる。かつて“V”はラークヒルに存在した強制収容所の囚人で、サトラーと側近たちは収容所の幹部であった。“V”は施設で人体実験の被験者にされ、サトラーは実験で生み出したウィルスによる細菌テロを自作自演で解決することで支持を集め政権を手にしていた。“V”の行いは復讐(“V for Vendetta”)だったのだ。
制作は「マトリックス」シリーズでおなじみの ウォシャウスキー兄弟。
監督は「マトリックス」シリーズで助監督を務めたジェームス・マクティーブ。
切れの良いアクションシーン、スローモーション演出のタイミングや炎や水といったエレメントの使い方はお見事の一言。
ちなみに主人公のVに扮するのは、『マトリックス』のエージェントスミスでおなじみ、ヒューゴ・ウィーヴィングであるが、劇中では一度もマスクの下の素顔を明かすことがない(後述)うえ、完成に至るまでの経緯がとてもややこしい。
●脚本が完成した時点ではヒューゴ・ウィーヴィングがV役の候補であったが、別の映画作品の撮影のためにオファーを断り、イギリス人俳優のジェームズ・ピュアフォイが抜擢された。だが、マスクをつけたままの演技にストレスを感じ、撮影に入って約1か月で降板となり、別作品の撮影を終えたウィーヴィングが再び抜擢された。しかし、公開済みの本編ではピュアフォイが演じたVのシーンもいくつか含まれている。後にウィーヴィングが声だけ入れ直した。
Vの正体について、劇中で何度となくそれらしき過去の足跡が回想として示されるが、
ついぞ、Vという名前の由来も、何通りかの説が示唆されるだけで、真意のほどは明らかではない。これは劇中におけるVの「このマスクこそが素顔」という台詞と付随して、遂に自らを「何者でもない」と定義することによって民衆を決起させ、立ち上がらせる。
Vはついに観客にすらその正体を悟られることなく、一つの国家を壊滅にまで追い込み、おまけにビッグベンを爆破してしまった、間違いなくアメコミ界随一のアナーキストであり、折り紙つきのアンチ全体主義の政治的危険思想犯なのだ。
Vのトレードマークであるヒゲ面の男の仮面は、元ネタがあり、1605年11月5日に発生した火薬陰謀事件(当時イングランドで抑圧されていたカトリック教の過激派による未遂に終わった大規模爆破テロ)の首謀者、ガイ・フォークスの顔をモチーフとしたものとされている。ちなみに男を指す英語のガイ(GUY)は、ガイ・フォークスを出自とする言葉なんだよ。
<以下Wikipediaより引用>
イギリスでは、11月5日(ただしグレゴリオ暦)は「ガイ・フォークス・ナイト」と呼ばれている。毎年この日には、「ガイ (guy) 」と呼ばれるフォークスを表す人形を市中に曳き回したのちに篝火で焼く行事が各地で行われた。現在では、もっぱら打ち上げ花火を楽しむ祭りとなっている。
ガイ・フォークスの仮面は、今やハッカー集団のアノニマスのキャンペーン運動で用いられることが多く、海外ニュースやインターネットミームとして多く目にする機会も多くなった。
詳しくはWikipedia「ガイ・フォークス・マスク」を参照。
今作で制作されたマスクは、東映版ジャイアントロボの顔のように、
見る角度やライティングによって、笑っているように見えたり、怒りを携えているようにも、泣き顔に見えたりもする。
近年の映画プロップの完成度としては、間違いなく随一のモデルだと思う。
とまぁ、歴史的背景やマスクにまつわる逸話はここまでとして、映画としての魅力について語っていこうと思う。
今作は映画オリジナルと思われがちだが、そうではない。
原作はアメコミファンならその名を知らぬ人はいない、鬼才アラン・ムーア。代表作として『ウォッチメン』や『フロム・ヘル』など。
昨年、亡くなったスタン・リーがアメコミ界の表舞台やメインストリームを牽引した、”陽”の偉人だとすれば、アラン・ムーアは完全にダークサイド。見た目からしてアングラのそれである。
しかしながら、氏の紡ぐ物語はえてして奇抜な外見とは裏腹に、現実と矛盾せず肉薄しながらも、非常にトンチの利いた展開が散りばめられ、ちょっとした大作を読み終えたような疲労感と満足感を得ることが出来ること請け合いだ。
『Vフォー・ヴェンデッタ』の作画を担当したのはデザイナーであり、コミックアーティストのデヴィット・ロイド。今作でロイドが再解釈したガイ・フォークス・マスクが映画版のデザインとしても引き継がれることになる。
時折、熱心なファンや歴史マニアによって歴史の捻じ曲げと揶揄される映画版に対して、原作の『Vフォー・ヴェンデッタ』は映画版よりもさらに難解で、ゴシックな作画と会話劇をメインとしたコマ数の多い構成となっているため、現在のアートブックのようなコミックに慣れてしまったユーザーに対しては、オススメし辛い内容になっている。
作品内に登場する、様々な過去作品の引用も素晴らしい。
Vのこよなく愛する映画として、『岩窟王』が登場するのだが、この作品の主人公であるエドモン・ダンテスというのは、無実の罪で投獄された過去を持ち、やがてモンテ・クリスト伯爵と身分を偽りながら、自らを陥れた者たちに復讐を遂げる物語である。
Vの徐々に明らかになる過去の足跡は、そのままモンテ・クリスト伯爵の生き様のトレスとなっている。だからこそ、ヒロインのイヴィーは「彼は復讐しか頭になくて、ヒロインが可愛そうだった」という感想を述べる。
原作はヒロインのイヴィー以外のその他大勢の証言に基づく”V”という謎の存在が物語を左右するミステリとしてのフックとなっているのに対し、映画版はやはり万人が観る興行向け作品として、まとまりよく制作されていることが分かる。
指摘の槍玉にあがる政治的な改変も、よくよく原作を読み込めば、ムーアの「テレビメディアへの痛烈なプロパガンダ批判」という現実社会に肉薄した要素も、映画のテーマとして上手く落とし込んでいるとよくよく感心する。
制作された2005年と言えば、まだ9.11のテロリズムやイラク戦争の記憶が残る、
まさに混沌とした時代。その最中に「政府に反旗を翻す」 ことを主題にした映画が
ブロックバスター映画として公開されていたわけだから、つくづくこの映画の置かれた
奇異さが際立つ。
なにより、筆者としては”V”のいじらしい恋愛模様や、エプロン着用で朝食を作る”V”、ごっこ遊びに興じる”V”など、とにかく”V”に萌えまくってほしいのだ。