極私的偏愛映画⑩『ゾディアック』究極のオブセッション映画。演出が冴え、役者が光る。自己内葛藤映画の決定版。

 

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ロバート・ダウニーJr(アイアンマン)マーク・ラファロ(ハルク)に次いで、

ジェイク・ギレンホール(ミステリオ)マーベル映画入りしてしまったせいで、

 

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いずれ「マーベル役者が共演していた映画」として紹介されてしまうんじゃないかとヒヤヒヤする今作。でも、同じくらい観ている間もヒヤヒヤさせてくれる、ゼロ年代一桁に制作された、デヴィット・フィンチャー監督の傑作スリラー。

 

それでは、やっていきましょう。

 

 

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アメリカ犯罪史上最も危うい連続殺人鬼と言われる“ゾディアック・キラー”を題材にした話題作。ゾディアックに関わり、人生を狂わされた4人の男たちの姿を描く。監督は『セブン』のデビッド・フィンチャー

 

今作は、とある監督志望の友人が、しょっちゅう映画談義の際に引き合いに出す作品だもんで、繰り返し観るようになってから、どんどん今作の魅力にハマっていってしまった、罪深い作品である。

 

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物語のベースとなっているのは、1960年代に端を発する連続殺人事件、通称「ゾディアック事件」を下敷きに、当時から事件を追い続けた風刺漫画家のロバート・グレイスミスのノンフィクション小説。

ロバート・グレイスミスは今作の実質的な主人公であるが、映画としては、連続殺人鬼「ゾディアック・キラー」を名乗る男に振り回される男たちの群像劇の体を成している。

 

ベースとなった「ゾディアック事件」は下記を参照。

ja.wikipedia.org

 

 

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実在の事件とはいえ、殺人犯の肩書きが「占星術の男」とは、中々洒落ている。

実際、事件自体も様々な捜査を経てなお、現在に至るまで犯人の逮捕には至っておらず迷宮入り事件、初の劇場型犯罪の一つとしても名高い。

事件はのちに『ダーティー・ハリー』でモチーフとして登場し、「占星術の男」は「さそり座の男(スコルピオ)」として脚色され、公開された。「ゾディアック事件」が愉快犯による犯行であったため、映画館に犯人が現れるとにらんだ当時のサンフランシスコ警察が、公開劇場に張り込んだいきさつもしっかり劇中で再現しているのが芸コマだ。

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今作は、実質の主人公であるグレイスミス(ジェイク・ギレンホール)を中心に、若いカップルの惨殺事件を皮切りに、「ゾディアック・キラー」からの犯行声明によって徐々に緊張を迫られる警察組織側の捜査員たち、飛び交う様々な情報に翻弄される情報機関の人々の姿が交差して描かれていく。

犯行声明もエスカレートし、その内容は回を追うごとに難解になり、劇場型犯罪によくある、模倣犯の大量発生が捜査をより複雑な状態に追い込んでいた。

 

その最中、風刺漫画家でありながら、劇中で最も「ゾディアック・キラー」の正体に肉薄するグレイスミスこそが、今作の本質を最も如実に表した存在である。

事件は発生を1968年として、「ゾディアック・キラー」から最後の連絡があった1974年に至るまで、都合約6年間に及ぶ捜査が行われたが、時間が経つにつれ証拠は失われ、供述も減り、捜査員は辟易していく。そうして、劇中の後半では実質グレイスミスの一人相撲の状態になる。

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いわば、グレイスミスが劇中における”探偵”の役割を果たしながらも、半ば狂気的に愉快犯の正体を突き止めるべく、やがて世間や家庭から乖離していく過程から、

今作から濃厚に香ってくる「オブセッション映画」としての側面を見出すことが出来る。

誰に強制された訳でもなく、劇中ロバート・ダウニーから指摘される通り、グレイスミスはこの事件においては完全に「部外者」であり、「全くの赤の他人」なのである。

ましてや、捜査官でもなく、いち漫画家であるグレイスミスの行動は明らかに度を越した、常軌を逸脱したものとして、突き進むことになる。

いわば執念ともとれるが、そこにあるのは事件解決への”正義感”ではなく、「俺が最もこの男の事を理解してしまった」という、呪いに近い感覚だ。

 

今作はグレイスミスに限らず、時を経てもなお、「ゾディアック事件」に人生を狂わせる男たちを描いてはいるものの、その様相たるや、まるで曼荼羅である。

 

今作が根底で描いているものは「不条理なエネルギーに突き動かされる人間」であり、まったく理にかなったことではないと頭で理解しつつも、得体の知れない犯人の手のひらで転がされる以上に、「自らの中で沸き起こる疑問符」への答えを探す、至極、内省的な物語なのだと気が付く。愉快犯は序盤から終盤に至るまで、作品自体の「マクガフィン」であり続け、ついにその正体を晒すことなく映画は終わるのだ。

 

主演であるジェイク・ギレンホールはこういう、やや社会をナナメに見ていて何かに熱中して取り返しのつかなくなるキチガイと健常者の狭間の住人な役をやらせたら天下一品だ。

 

終盤、グレイスミスや捜査官の尽力もあり、”恐らく犯人であろう男”に接近することになるが、それも100%ではない。どこかあやふやな状態で物語は幕を閉じる。

 

のちに監督であるフィンチャーはDVDのインタビューでこう述べている。

 

“事件をいい加減に描くつもりはない。実際の殺人事件だから関心が集まる

不幸にもドラマチックな事件だが、テーマは大量殺人犯への賛歌じゃない。犯人を掘り下げる気はない。興味の対象は別にある。ある意味で取り残された関係者が、満足できないまま、どう生き抜いたかだ”

 

思えば、ファイト・クラブしかり、『ゲーム』しかり、『セブン』

しかり、フィンチャーの代表作の根幹を成すものは、どれも共通したテーマで一貫されている。

それは、「物質社会での”実存”とは何か?」「人は、なぜ生きるのか?」という問いかけである。ファイト・クラブなどまさにその典型で、生活にも物質にも恵まれているはずの男が、現実社会に満足できず人格は分裂し、挙句、秘密の健闘クラブを作り、精神的な充足を得るという物語だ。

 

後年の作品であるソーシャル・ネットワークに至るまで、こうしたフィンチャーの実存的問いかけは持続し続けて、いや、むしろ世の中が便利になる一方でそのテーマ性と影を、より濃いものとしていると思うのだ。

ソーシャル・ネットワーク』は、天才プログラマーで億万長者にまで上り詰めた男が、ついには、本当に手に入れたかったものたった一人の女性の愛すら得ることなく、友情すらも破壊して、ついには膨大な”それ以外の不純物”にまみれてしまうという悲劇で終わる。

(今作が現代版「市民ケーン」と呼ばれる所以である)

 

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対して、『ソディアック』はどうか。

前述の通り、風刺漫画家の立場でありながら、グレイスミスは「ゾディアック・キラー」の正体に肉薄するが、その反動で、家庭を顧みないようになり、犯人からの報復を恐れた妻からは別居を申し渡されてしまう。

生活がボロボロになったところで、妻はグレイスミスに「気の済むまでやりなさい」と皮肉めいた激励の言葉をかける。(グッとくる。こういうカミさんが欲しいもんだよ)

 

グレイスミスは事件そのものを追求する代わりに、小説として「ゾディアック事件」を一冊の本に纏め上げることを決め、捜査の初段階にまで遡ることになる。

 

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ところが、思わぬところで更に犯人に繋がる糸口を見出したグレイスミスは、恐らく犯人であろう、一人の男に接近することになる。

「ゾディアック・キラー」は単独犯でなかった、という確信を得るが、同時にあやうく命を失っていたかもしれない状況に遭遇することによって、グレイスミスは自らの中で折り合いをつけ、自らが知りうる情報を「ゾディアック事件記」として、出版することで、ようやく自らに課した荷を、自ら降ろすことになるのである。

 

フィンチャーは「どんな出来事にも区切りをつけないといけない。前を向いて前進しなくてはいけないんだ。」と、同じくDVDのインタビューで述べている。

 

『ゾディアック』は一つの事件を皮切りに、自己葛藤に突き動かされる男たちの、数奇な映画の一本である。

だが、同時に彼らやグレイスミスの姿に共感や憧れを抱いたならば、それは恐らく「胸のうちでくすぶる何か」への共鳴作用である。

そうした意味では、今作は踏み絵的な映画といえよう。

 

とはいえ、忘れてはならないのが、グレイスミスは「ゾディアック事件」に最も深く関わり、無事、生還した人物である、ということだ。

 

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詳細は省いたが、この裏で「ゾディアック事件」に関わった影響で報道記者のエイブリー(ロバート・ダウニーJr)は人生を破滅状態まで追い込まれてしまっているのである。

ハエのように事件の周囲を飛び回り、警察からも煙たがられていたエイブリーが、事件で一番の落伍者として人生を棒に振ってしまっているのが興味深い。

(とはいえ、彼も一度は殺人鬼の正体に意図せず近づいてしまった人物である)

 

自己脅迫的な観念を扱った題材ではあるが、名目はどうあれ、それはイカロスの翼に似たものである、ということをフィンチャーは言いたいのだと思う。

太陽に接近しすぎた代償として、ロウの翼は溶け、イカロスは地に失墜することになる。

 

何かに向かってまい進する代償を、いずれは払うことになる。

しかし、それは果たして人生を投げ打ってまで支払う価値があるのか?

回答はない。そうまでしないと、人は生きていけないのか?

 

そうした疑問に対し、この映画は少なからずの回答を残してくれている、と筆者は思う。

人生の岐路に迷ったとき、向かうべき指針を見失ったとき、筆者はこの作品のDVDを見返すようにしている。

 

つまり、そういうことなのだ。