ミニマル映画ゲマインシャフト第3回大会 感想レポ
去る1月18日に行われた、ミニマル映画ゲマインシャフトというオムニバス形式、短編映画の上映会に行ってきました。
直接的なきっかけとしては、本プログラムで上映された『穴を掘る』の監督、矢川健吾さんからのご招待だったんですが、当日は別作品の撮影で国内に不在という状況だったので、完全に今回は知り合い目線無しの、感想レポートになります。
場所は高円寺のシアターバッカスというところ。筆者は今回のプログラムで初めて知ったのですが、雑居ビルの規模的には渋谷のアップリンクくらい。
シートはかなりしっかりしていて、長時間でも疲れるということはなかったです。
プログラムの意図としては、極力ミニマムな姿勢で作られた作品を募り、
第三回となる今回のテーマとしては「技巧派」らしく、短編で低予算ながらも確かな実力やコンセプトの強さを感じた作品を厳選したとのこと。
●1作目 串田 壮史監督「声」 (2017年/10分)
寂しい男の部屋の壁に、ある日、女の影が浮かび上がる。
男は光と影に心を奪われてゆく。
全編台詞無しのショート作品。上映後に監督の登壇があり、今作は所謂、自主作品ではなく、依頼されて製作された作品とのこと。
とはいえ、10分という尺に収めるための創意工夫(作業風景を早回しにする等)を行いつつ、「木の影の女」と心を通わせ、次第に人生に色彩を得ていく男の姿は叙情的で、
至極、内省的。極私的な喜びがひしひしと伝わってくる一作。
季節は巡り、女の影(木)は散ってしまう。だが、季節が巡れば木はまた華やぐだろう、という物語のその先を予感させる、程よい期待と心地よさを暗示して物語は幕を閉じる。
●2作目 矢川 健吾監督「穴を掘る」 (2017年/16分)
男は仕事を終え、街を離れていく。 無人駅に着くと、男はスコップ片手に夜の森へと入っていった。 「闘うことに言葉はいらない。」 男は何を求めて森へ行くのか? 何のために穴を掘るのか? 映画において、言葉は説明的なものであり、最小限であるべきなんだ。
今回で二度目の鑑賞。(一度目は完成後の試写会にて)
今作も台詞らしい台詞は一切なし。それぞれの日常を抱えた男たちが日常から自らを切り離し、夜毎、山奥に集い、穴を掘る。明確なルールはなく、勝敗の基準も観客には分からない。
というより、対戦相手が必要かも不明だ。
一見、馬鹿馬鹿しいが、むしろ、穴を掘ることで、自らと対峙する機会を得て楽しんでいるようにも見える。
今作では”穴を掘る”という行為そのものをマクガフィンとして『ファイト・クラブ』的なホモソーシャルな戦いを描く。その結実としては、「穴を掘る=自らの根底まで接近する行為」という、非常に自己完結的で禅問答のような問いかけになってしまうところを、異形の俺ジナル・シャベルや、見るからに社会不適合そうな個性のオーナーであるアナホライザーたち、秘密を抱えた同士が日常で偶然遭遇してしまうくだり、最強のメタファーであるラスボスの男の心意気など、
監督が影響下にあるコミックや、映画的な遊び心でもって、内省的な主題に対して、エンターテインメント的な楽しさをプラスして提供している。再燃の兆しをみせる、スポ根ものの延長線といっても良いのだが、近年の『セッション』のような、文字通りブラックな系統の作品に寄せた内容だ。
今作に関しては、撮影まで行われて没となった幻のエンディングも含め、色々と制作事情を知ってしまっているが、知人の縁からすると、
「女なんぞいらねぇ!破ッッ!憤ッッ!」という刃牙にかなり毒された感じとか、おちんちん指数の高い気概はムンムン伝わって来るので、至極、矢川監督らしい一作となっていると思うのだが、実のところ、今作における”男性社会”的な要素はあくまで外装にすぎず、実際は間逆に位置する事象に対しての不可逆の結果なのでは、と勘ぐってしまう。
●3作目 サイラス・望・セスナ監督「理想の彼」
物語はある大学の英語クラスの授業風景。講義の議題は「理想のデート」を英文で述べる、というもの。
やる気のない生徒もいる中、意気揚々と流暢に英語を駆使し、自らの「理想のデート」を語ってみせる女生徒が一人。彼女の理想のデートは、年頃の女子ならではの甘ったるいものだが、やがて物語は全く予想外の展開で終焉を迎える。
監督のサイラス・望・セスナさんは、外国人の方。普段はNHKなどで英語のナレーションをしていたりする方とのこと。どおりで。
今回の作品群の中では最もポップで、前2作品とは異なりバンバン台詞が飛び交う(英語の)
全男子が凍りつくイヤ~な風味のオチも含めて、恐らく最もブラックな一作。
実際の講義室とデート風景のイメージシーンの繋ぎも自然で、テーマ的にも理解のしやすい内容であるが、登場人物のわざとらしさや、女生徒のある行動の回りクドさがかえって陳腐な印象に繋がってしまっている気がしなくもない。
●4作目 常間地 裕監督「なみぎわ」 (2017年/20分)
大人と子供、その間で揺れながら生きる二人の日常が、これからの二人にとって特別な1日へと変わっていく。
芸術の進路に進みたいが、親の反対もあり、いまいち態度を決めかねている青年。どうしようもない親の借金のせいで早々に働きに出るも、いつかこの世界から抜け出してやるという思いを胸に秘めた青年。二人のある日の出来事をワンカットで撮影で描く。
監督の常間地 裕さんはまだ学生(これから院に入るかどうか決めかねている?)とのことで、人生のある節目に立った人間の、等身大の物語が反映されているのだろう。
物語のラストは、やけっぱちに世界から飛び出すように物語は幕を閉じるが、彼らがそれぞれ、自らの行く末をどう決断したのか、明確な答えは示さない。要するに今作は海と地上の狭間で揺れる、童貞ならぬ”道程”映画なのだ。彼らにとって、行く末は未知であり、今、この瞬間に感じた事や下した決断は理性や理屈を上回って大事なことなのだ。あえて、それを示さないことによって映画的な叙情感を獲得している。
とはいえ、筆者が気になったのは、若い世代が撮ったと思えないくらい登場人物が前世代的なステレオタイプすぎる点。カメラを「キャメラ」と呼んじゃう世代の指導を受けると、こういう感じの脚本になることはままあるが、真相はいかに…
●5作目 古川原 壮志監督「なぎさ」 (2017年/18分)
クラスメイトの男の子と女の子。プールの時間に二人で話したことを、男の子は繰り返し思い出す。
今回のプログラムのトリを務める今作。
恐らく、どこに出しても通用する作品であろうことは、鑑賞してよく分かった。
「あの頃、あの夏、君と。」系映画はウケも良いしね。
かなりマンガっぽい印象を受けたが、今作もかなり内省的な一作だ。
詳細は省くが、「プールサイドに美少女と僕」という時点で筆者は「はぁ」となってしまう。なんだか『学校の怪談』のワンシーンを見ているような、そういう懐かしい気分が去来する。
ある意味、今プログラムで最も暴力的な一作と言えるかもしれない。口を差し挟む余地がないのだ。なので、以上。
計5作品をぶっ通しで観たわけだが、結論からいうと、なんだかんだ言って、ミニマルながらそれぞれの味がしっかり出ていて、プログラムとしては良かった。
意欲的なものもあれば、手癖で撮っているように映った作品もあり、未熟さをコンセプトで補っている作品もあり、なんだか大学時代の公評会に立ち会っている時の気持ちを思い出して、心がザワついて仕方がなかった。