感想『マーウェン』記憶喪失の男が人形とジオラマで作り上げた空想世界で、己と向き合う話。
コンニチハコンバンハオヤスミ。
ドーモ、シンタヨです。
少し間が開いてしまいましたが、今回は自粛期間中にまとめ見した映画の中で樹になxtたものをピックアップ。
今回は2018年公開の『マーウェン』をご紹介。
今作は、私のカッチャマから「おおシンタヨよ。玩具と映画ばかりのお前の人生で、この映画を観ていないとは情けない」的なダイレクトメッセージを頂戴し、
「なにくそ」と思って、いざ鑑賞。
確かに、スティーブ・カレル主演だってのに、未見だったのは何故でしょう。
たぶん、忙しかったのでしょう。
監督はロバート・ゼメキス。
色々名作を作ってはいるので、いまさら紹介の必要もないと思うのですが、
よく「スピルバーグ作品」と誤認されがちなこの辺の作品を手掛けた監督です。
最近、『コンタクト』のワンシーンのカメラワークが話題になっていましたが、
作品は兎も角、撮影の組み立てに関してはアイデアマンなので、色々勉強になります。
ロバート・ゼメキス、たまにギョッとするようなトリッキーな映像入れてくるんだよな。「コンタクト」のコレとか。 pic.twitter.com/O6Je0W17Hq
— 間借りさん (@magarisan) 2020年6月12日
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作品について
今作は、実際に存在するマーク・ホーガンキャンプという写真家をモデルとした実話ベースの物語。2000年に集団暴行(ヘイトクライム)に遭ってしまったホーガン(通称穂ホギー)は、その際のショックでリンチ以前の記憶を失い、体の自由もきかなくなってしまうくらいの重症を負っていました。
しかし、もっとひどかったのは心の傷です。
体はリハビリによって回復しても、依然、断片的な記憶しか取り戻せずに、以降、極端に他社との接触を避けるようになり、第二次大戦下を舞台とする「マーウェン」と呼ばれる巨大な街のジオラマを制作し、そこで自らの分身である人形と、自らに関わりの深い女性たちをモチーフとした、女戦士集団と、ナチス軍団との終わらぬ戦いを写真で撮影するようになる。
上記画像が、実在のマーク・ホーガンキャンプ。
以下のリンクは、氏の公式サイト。
実話ベースということですが、今作におけるスティーブ・カレルの人選は、
正直、可もなく不可もなくという印象です。
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”マーウェン”という架空の街が象徴するもの
”マーウェン”という街の意味は、主人公マークとかつての妻(?)ウェンディの頭文字を取ったことに由来することが劇中で暗示されますが、実際のところはホギーの内面で巻き起こる欲望や畏怖、そういったものがダイレクトに反映される世界です。
ホギーがはべらせている女戦士軍団には様々なモデルが存在し、実際にホギーの周囲にいる職場の色っぽいお姉ちゃんや、行きつけの模型店の店員など、
要するに、お気に入りの女の子たちで自らのハーレムを作ろうということなのですが、
マーウェンでの女戦士は、ただのか弱い女性というわけではなく、男顔負けにライフルを振り回すホギーにとっての”保護者”であり”守護天使”的なポジションに近い存在です。
この”マーウェン”という映画は、傷ついた一人の男が「自らの人生を取り戻す」話であると同時に、彼の中での”女性”というものに対して、どういった折り合いをつけるのかを探る物語でもあります。
というのも、彼がリンチされる一因となったのは、ホギー自身の隠された趣味の、
「女物のハイヒールを収集する」という一面を茶化され、挑発するような態度をとってしまったことで生み出された悲劇だったからです。
ホギーいわく、「ハイヒールを収集することで、少しだけ女性を理解できた気がする」とのこと。ですが、周囲の人間は、それを揶揄することもなく、ただ、現状ありのままのホギーを受け入れています。
向かいに引っ越してきたニコルという女性に恋をし、彼女そっくりの人形を作り、マーウェンでのホギーの恋人キャラとして登場するも、現実世界でのプロポーズに失敗したら、あっさり彼女を殺そうとします。
”マーウェン”は空想の世界で、ホギーはそこへ逃避することで安息を得ますが、
逆に空想に縛られすぎることも、
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違和感の残る着地点
実を言うと、僕はこの映画に対して、あまり肯定的な意見は持てないまま、この記事を書いています。
というのも、”マーウェン”は言うまでもなくホギーの内面世界の実体化なのですが、そこに介入するセクシュアリティという問題に対して、あまり口数が多い映画ではないせいか、キャラクターの感情のラインについてイマイチ乗り切れませんでした。
お話の進め方に関しても、やや乱暴な印象を受け、ホギーの苦悩の結果としての”答え”に対して「このオチでよかったのだろうか」というクエスチョンばかりが浮かび、
どうしても違和感を拭いきれずに物語が終わってしまった。
そんな印象を受けたからです。
今作で、ホギーの抱える苦悩というものは作品内では大きく分けて3つあると考えます。
- 過去に暴行されたことに起因する”男性”や”暴力”といった雄々しいものへの嫌悪感
- 変質的とされる趣味を持っている自分自身への偏見や差別
- ゲイではないのだが、女性に対してどう振る舞い、接するべきかという悩み
①に関しては、物語の展開や描写的にも、ホギーがいわゆる”オラついた男性”を過去のPTSDの経験からして恐怖しているのは明らかで、お向かいに越してきた隣人のニコルを追ってきた元旦那の登場シーン(乗り付けた車に人形の乗ったジープを轢かれそうになる)や、ナチス兵の中のモデルが自分を暴行した男たち、前述の元旦那が含まれていることからも明らかで、これらは実際に「自らの抱える性的資質(セクシャル・マイノリティ)への偏見」や「無理解による理不尽」のメタだと捉えることが出来ます。
これらは、最終的にはホギーによる暴行犯への”赦し”によって、かつてのトラウマを乗り越え、「過去を振り返らない」という映画的な模範解答によって表向き、昇華したように見えます。
また、劇中で度々ホギーを惑わせる”魔女”の存在、「実は”精神の安定のために常飲していた精神安定剤による副作用”こそが、ホギーを蝕んでいた根源だった」
というオチにいたっては、それを暗示するように魔女のカラーリングは錠剤の「青+白」を取り入れるという映画的なギミックを内包しているのですが、こちらは言われて「ああ」と納得するレベルで、個人的には「ホギーが薬物中毒状態に陥っている」という伏線は、小出しはされていても、あまり効果は上げていないように感じました。
おそらく、魔女はホギーの空想する行為とイコールの存在で、物事の内容を捻じ曲げ、現実への客観性を失わせる行為の代理人という意味合いをもつのですが、
上記の「薬剤」のメタファーも合わせてしまっているので、キャラクターの暗喩としてあやふやに分散してしまっている気がします。
②に関しては、ホギーの持つ「女性のハイヒールを集める趣味」を指しますが、暴行事件の直接的な一端にも関わらず、この問題に対するバイアスが無いというか、、、
あまりに周囲の理解がありすぎて、ストレスなく進んでしまい、ラストに「ホギーがハイヒールを着用して表に出るようになる」というシーンが味気なく、従って物語的なカタルシスが弱い印象でした。
③では、ホギーの周りには、多くの女性キャラが登場しますが、
その関係性に関しては実にプラトニックなものです。実際は違いますが、ニュアンスとしては「オネエとその女友達」のような空気感で対話は進むのです。
映画の構造的には、彼女らが「ホギーが傷を克服し、再生を果たすための保護的な役割」を担っているのは明らかなのですが、例外的な「ウェンディ」と「ニコル」へ特別扱いばかりが目立ちます。
ですが、現実では「最も色々と世話を焼いてくれた模型屋の店員の娘をデートに誘う」ことで、一応、映画としての先回りは済ませるというソツのない伏線回収が、期待通りではありますが、かえってわざとらしく感じました。
ホギーを単純に病的だけど”いい人”として描きたいのであれば、その他の女性たちへの感謝の描写が合ってもいいのではと思いましたが、パッと現れたニコルばかり持ち上げて、「感謝の意を評して、”マーウェンコル”に町の名を改名しました」
とか言われても、全く好感なんて抱けませんし、そもそも元妻の人形を「もう要らないBOX」にポイと捨てるような人物に、どう感情移入しろと。
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総評
映画としての完成度はそこそこという感じですが、主人公やその他の登場人物の心情の汲み取りがかなり困難な映画です。
ホギーの再生の過程で、”周囲の理解”というものが必要不可欠になり、それを解消することが映画的なカタルシスに結びつくと思うのですが、それに必要なホギーへのバイアスが自己完結的すぎて、キャラクター同士のセッションを生み出していない印象を受けました。
そうした意味では、今作は”オブセッション映画”といえるのかもしれませんが、
正直なところ、劇中でのマーク・ホーガンキャンプの想像する世界観が、
「これ、面白いか?」と感じてしまったのが正直なところです。
ホギーの性的趣向に関してもそうですし、個人的にはポリティカルコレクトに関して配慮するあまり、映画として本来尖る部分を、総じて切り落としてしまったような、
お行儀の良さばかりが目立ちます。
大衆映画なのだからしょうがない、と割り切れば良いと思いますが、一般大衆向けに公開されている映画でも、もっと深いところに切り込んでいる映画はあると思います。
ホギーが”マーウェン”の世界に没入する際には、フルCGによる人形たちの活躍が描かれますが、クオリティはともかく、皆、目の死んだ文字通りの”人形”にしか見えないのも良くなく、そこはチープでもいいのでパペットアニメーションにするとか、”個人作家の思い描く夢”という描き方はできなかったのかと感じます。
ともあれ、人形をモチーフとした映画で、”質感”にこだわれないというのは致命的すぎるし、ゼメキスってもう少しフェチな描写を描ける監督だと思っていたので、残念なのと、現実の登場人物もなんだか役割を与えられたフィギュアのようで、感情移入がしづらい。
書いていて結論が出てしまったのですが、この映画はもっとフェチな作風で良かったのではと感じます。
上記のディテールであったり、ですが、もっとお行儀が悪くてもいいから、極端さや偏執的なほどに偏った内容であったほうが良い気がします。
特に、ホギーは記憶喪失というキャラクターですから、”喪失”を描くこと以上に、”本質”に対する問いや答えを明確に描いてくれたという気はあまりしなかったです。
ホギーに関しても、スティーブ・カレルの良さとは絶妙に噛み合わないキャラクター造形で、”病的”とは異なる対人関係における雑さばかりが目立ち、単に「自分勝手な人物」に写り、お世辞にも好感のもてるキャラではありませんでした。
これが実際に精神を病んだ人間のリアリティ、と言われれば反論の余地もありませんが、
「こうした人間を受け入れられるよう社会でありたい」という命題を突きつけるには
セクシャル・マイノリティやPTSDという題材を、ここまでライトに取り扱ってよいのだろうかという疑念に行き着くばかり。
そういう意味では、実に「踏み込みの浅い」映画という印象でした。