極私的偏愛映画⑭『グラン・トリノ』あっぱれイーストウッド爺が魅せる。最最最高の大大大傑作。

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グラン・トリノ』は当時、劇場で鑑賞した映画としては、長らく筆者の中ではイマイチな映画として認識していた。当時は良さがよく理解できなかったのである。

 

本作の味わいや良さに気がつくことが出来たのは、ごく近年のことである。

それは、「クリント・イーストウッド」というスター兼、名監督の足跡を辿ったのちにこの映画をことあるごとに観返すに到り、今作の奥深さ、演出の懐の深さ、クラシックな良さに段々と味わいを感じるようになったのだった。

 

それでは、やっていきましょう。

 

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フォードの自動車工を50年勤めあげたポーランド系米国人コワルスキーは、妻を亡くし(妻を思い出して「俺は嫌われ者だが、女房は世界で最高だった」という)、愛車グラン・トリノを誇りに、日本車が台頭して住民も今や東洋人の町となったデトロイトで隠居暮らしを続けていた。頑固さゆえに息子たちにも嫌われ、限られた友人と悪態をつき合う日々であり、亡き妻の頼った神父をも近づけようとしない。常に国旗を掲げた自宅のポーチでビールを缶のまま飲んで、飲み終えると片手でくしゃっと握りつぶす。コワルスキーを意固地にしたのは朝鮮戦争での己の罪の記憶であった。

彼の家に、ギャングにそそのかされた隣家のモン族の少年タオが愛車を狙って忍び込むが、コワルスキーの構えた銃の前に逃げ去る。なりゆきで、タオや姉スーを不良達から救い、スーにホームパーティーに招かれ、歓待してくれた彼ら家族の温かさに感じる。その後、タオに仕事を世話して一人前の男にさせることを頼まれる。仕事によって成長していくタオの姿を見て考え方が変わっていくコワルスキー。乗り気ではなかったが体調が良くなく病院に行き病が体を蝕んでいることを知る

 

今作のイーストウッドは相も変わらずの町一番の偏屈ジジイという役回りで、「苦虫を噛み潰したような顔」を地でいっている。

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妻を亡くしたばかりの父を思いやる息子夫妻からの歩み寄りも、神父の説法も通じない。完全に他人を遠ざけて噛みタバコを嗜むアメリカの「頑固一徹」感は超・記号的かつ、堂にいっていすぎて、もはや天丼ネタのコントを見ているような気分にすらなってくる。

 

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今作は、辛気臭くバイオレンスな内容には違いないが、筆者が今作を強くお勧めしたい理由のひとつとして、基本的には「笑えるシーン」が多い、最上級の”おじいちゃん萌えコメディ”としての完成度が高いことを挙げる。

 

特に、隣家のモン族の食事会に御呼ばれして右往左往した挙句、文化の違いからトンチンカンに振舞っても、最終的にはビールを片手に井戸端会議中のおばちゃん連中に混じって談笑しているシーンなど、今作で最も心温まるシーンではないだろうか。

 

コメディ映画ではないので、常時笑えるというわけではないが、今作の緊張感の走るシーンからの穏やかなシーンへの緩和は素晴らしく、同時に徐々に不穏な空気が漂い始めて、一気に「バイオレンス」として爆発する瞬間風速の緩急の付け方は、さすが職人芸といえる。

 

グラン・トリノ』以前にも、イースト・ウッドがメガホンをとった作品は数知れないが、映画のジャンルのみに関していえば、恐らくキューブリック以上に多くのジャンルに挑戦した監督の一人ではないかと思う。

サスペンス、ホラー、SF、コメディ、ヒューマンドラマ、多種多彩だ。

 

イーストウッド作品のある時期までの共通したテーマとして、「自警団」や「贖罪」といった題材を取り扱ったものが多い。

とあるインタビューにてイーストウッドは人生で最も影響を受けた映画として『牛泥棒』という西部劇の古典的作品を挙げている。

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牛泥棒』を簡略に説明するならば、「牛泥棒の容疑をかけられた青年を罰すべく、自警団を徒党した男たちが、やがて青年を縛り首に処するが、追ってやってきた保安官によって青年が無罪であることを告げられ、途方に暮れる」という映画だ。

 

一方で、イーストウッドのかつてのスター時代に出演した映画をよくよく思い返してみれば、マカロニ・ウエスタン時代から『ダーティハリー』に至るまで、

どこかしらで「アウトローの資質を抱えた男による私刑」という側面を見出すことが出来る。

ひとつに、アメリカという国の銃社会、「国が崩壊した際の為、自衛の為に市民による銃武装を許可している」という文化性に対する警報であると同時に、

侵略と征服を銃によって実現してきたアメリカの歴史そのもの」を「自警主義」というテーマに落とし込んでいるのだと思う。

フロンティア精神」といえば聞こえは良いが、要するにアメリカが最も恐れているのは他民族からの報復や侵略ではないだろうか。

今作『グラン・トリノ』はそうした現代アメリカの姿を、主人公であるコワルスキーの職業をフォードの自動車整備工に。舞台をデトロイトにすることによって体現してみせる。

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今作で登場するグラン・トリノはフォードがかつて完全国内生産していた貴重な車であり、”古き良きアメリカの魂が詰まった物づくりの結晶”そのものである。

 

舞台となったデトロイトグロス・ポイントと呼ばれる住宅街は、かつては車工場で働く労働者の住まう町だったが、日本製自動車の普及に押され、工場は軒並み閉鎖に追い込まれ、多くの人が去っていった。変わりに、黒人やメキシコ系といった移民が流れ込み、犯罪が増え、街は荒れ果てていった。

 

今作がイーストウッド作品である必然として、『グラン・トリノ』はイーストウッド過去に出演した作品の系譜の延長線上に成立している点にある。

 

経緯はどうあれ、コワルスキーの行いは至極、上記の自警主義を思わせるし、

事実、劇中ではまさにウエスタンや『ダーティハリー』を思わせるような下りも存在する。

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銃を出すような素振りをみせて、指で作った銃の撃鉄を起こしてみせ、一人ずつ頭を狙い「バン」と打ち抜く仕草をしてみせて、相手が油断したところで懐からサッとモノホンの銃を抜き出し、「失せろチンピラ」の一言。

気の利いた痺れるシーンだが、他ならぬイースト自身がやってのけると、また特別な意味合いが出てくる。

 

要するに、イーストウッドなりの「長年やってきた定番のネタ」であり、自身でやってきたことの反復でもって、「暴力を暴力で制する」とはどういうことなのかを、予め観客に分からせるための巧妙な仕掛けなのだと推測する。

 

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結果、襲い来る暴力に対して、同じく暴力で対抗しようとしたコワルスキーは、ある意味、死より残酷な結果をもって、その無力さを思い知るのである。

 

普段は穏やかできれい事を並べ立てるので、門前払いを喰らっていた神父だが、コワルスキーの家を訪れるなりビールを要求する。神父を家に招き入れ、「あいつらを殺してやりたい」と憤る神父に対して、

お前に殺す側の気持ちが分かってたまるか」とかつて暴力を行使した者として神父を諭すシーンも、残酷だが非常にグッとくるシーンだ。

 

そうした絶望の果てに、最後にコワルスキーが取った行動に、筆者はえらく驚嘆してしまった。

別段、予想できなかった展開でもなかったのだが、「どちらもあり得る」という刺股の思考に至らざるを得ない、それまでの演出とシナリオの見事さに、ただ溜飲を下げる思いで一杯になる。

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今作でコワルスキーは隣家のモン族と徐々に交流を深めていく反面、かつて朝鮮戦争でアジア系を虐殺した過去をもつコワルスキーは、種族こそ違えど、己の罪の意識の対象であるアジア系の一家が引っ越してきたことにより、物語冒頭はそれこそ心中穏やかでなく、差別的な暴言のオンパレードだが、次第に彼らの義理堅さや人間性を見つめるにつれ、懐柔してゆく。

ついには、「肌の色も文化も違うモン族だが、身内の連中といるよりも心地がよく、信頼できる」とさえ口にするようになるのである。

 

(主人公の決して購えない罪と贖罪というテーマは『許されざる者』でも垣間見ることが出来る)

 

今作でイーストウッドが込めたのは「アメリカを守るのは、何もアメリカ人である必要はない」ということではないだろうか。

 

詳細は伏せるが、物語のエンディングで、イーストウッドによる「グラン・トリノのテーマ」が流れる部分にも触れておきたい。

とても感動的に思えるが、ようするにおじいちゃんのカラオケだ。

 

俺の大事な、グラン・トリノ~♪」と、サイバーダムの採点機能なら30点ぐらいのしゃがれ声の歌唱力だが、これがグッと胸に染みるのだ。

 

骨太な演出と、過去作のオマージュで長年のファンを楽しませ、

最後の最後でしっとりとシメてくれるイーストウッド御大の心意気を是非、感じ取ってほしい。

 

 

最後に「いや、そういう映画じゃねぇから」と思わずツッコミたくなる、

イカした『グラン・トリノ』のお弁当箱(非公式)でお別れ。

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