感想『ミスター・ガラス』シャマCU、感動のフィナーレ。シャマラン教徒にとっての教典となるか
突然だが、僕はシャマラニストだ。
シャラマニストとは、皆様ご存知だろう、M・ナイト・シャマラン監督の映画を愛してやまない、カルト教のようなものである。
カルトとは、映画評論家、柳下毅一郎氏いわく、「表立って活動できない教団の集会が夜な夜な秘密裏に執り行われる様」に由来するというが、
シャマランの作品もまた、作品自体の完成度や一般の認知度、満足度に関わらず、
なぜかごく一部の圧倒的な支持でもって成立する。
そんなシャマランの最新作、いち教徒としては行くしかない。
筆者のシャマランと作品群への偏愛ぶりは下記の『サイン』をご覧頂きたい。
何度見返しても、茶化しているのか、褒めているのか分からない文章になっているのがお分かり頂けるだろう。
しかし、シャマラン作品とはそういうもの(ツッコミどころ満載、唐突な大どんでん返し、シュールギャグ)として受け入れててしまえば、どうということはない。
いつの間にか新作を今かヾと待ちわびるようになり、その心境たるや、クリスマス前の子供そのもの。
さて、今作『ミスター・ガラス』(原題『GLASS』のほうがカッコいので、以降は原題呼称とする)は2001年に公開された『アンブレイカブル』、2016年公開の『スピリット』の正当な続編であり、クロスオーバー作品である。
映画秘法の2019年1月号にて、M・ナイト・シャマランによるユニバース構想というプロジェクトを茶化しつつも、
「シャマラン・シネマティック・ユニバース」=”シャマCU”という最高に下らなくてイカした名称をつけてくれたおかげで、シャマランの「ブロックバスター映画の監督でありながら、やっていることはインディーズ映画の延長戦上」という可笑しさがより強化されることになった。
だから、上記2作品『アンブレイカブル』、『スピリット』を鑑賞して予備知識を蓄えてからの鑑賞が筆者としてはおススメなのだが、更にいえば、やはり教徒としてはシャマラン作品を全て押さえてから鑑賞に望んで欲しいのである。
特に『アンブレイカブル』はヒーロー(英雄)の誕生譚、
『スピリット』はヴィラン(悪役)の誕生譚として異様な完成度を誇っているため、是非見て欲しいのである。理由は主に笑えるからなのだが。
『アンブレイカブル(2001)』はいずれ極私的偏愛映画として取り上げざるを得ない、不朽の名作であるが、人生の時間を有益に使いたい、という人には絶対お勧めできない。そんな作品である。
映画への関心には、大きく分けていくつかのタイプがあると思う。
1、最新技術による視覚的な映像体験
2、ストーリーテリングや筋書きに対する関心
3、出演している俳優に対する関心
近年は筆者も特定の俳優が出演しているだけで鑑賞する機会、というのが増えてきたのだが、振り返れば、「映画」というジャンルが戦後以降急速に発展し、より安価で低価格帯で楽しめるようになってからは、それまで大衆の娯楽の大半を占めていた、
”芝居(演劇)を観に行く行為”に取って変わるようになったのだ。
歌舞伎や昭和中期までの映画などの、この「芝居をする役者を観に行く」という古き良き感覚が、今作『GLASS』に関しても、前作『スピリット』に息づいている。
言ってしまえば、お話などどうでも良くて、
ジェームズ・マカヴォイの渾身の一人芝居と顔芸
を観に行くという意味においては、1800円の料金を支払う価値はあると全力で擁護したい。
今作でマカヴォイが演じる”ビースト”という凶暴な人格が、物語上ではか弱い人格を庇護するための守護者として発露するわけだが、
実は、ビースト(野獣)というのは、上野動物園のパンダを見るために金を払うのに等しく、”気の狂った小嶋よしお”化したマカヴォイを見世物小屋や動物園的な感覚で見に来てくださいね、というシャマランなりの裏メッセージだとしたら恐ろしい。
なんだこれは。たまげたなぁ…
また、『GLASS』や『スピリット』など顕著だが、一応は大作として封切られているのだから、VFXを多用すればどうにでも過剰に表現できるところを、近年のシャマラン作品は、あえてCGに頼りすぎることなく、俳優のポテンシャルやカメラワーク、最高の演出で押し切ってしまう傾向が強い。
(例にあげるまでもなく、『サイン』や『デビル』といった作品では躊躇なくVFXの使用に踏み切っている)
だから、オールCGのヒーローやクリーチャーが所狭しと暴れまわり、爆発、人体破裂なんでもござれな昨今の映像作品に見慣れてしまっている人々にとってみれば、やや物足りない、食い足りない印象を受けると思う。
しかし、今作『GLASS』を製作するにあたり、自宅の抵当を担保に借金をした、というエピソードを聞くと、「本当に予算がなかったんだねぇ」と思ってしまうと同時に、
役者のキャスティングに予算を全振りしたのだろうか、という勘ぐり、
「最新技術の恩恵に頼り切ることなく、自らのフィルムに魂を焼き付けているシャマラン」という昭和の職人めいた情景を映し出してしまうのは筆者だけだろうか。
筆者は、現在の大作映画あるある「ビジュアル優先の特殊効果の多用によって、どの映画も大して代わり映えのない映像が溢れかえってしまっている」昨今に対してのシャマランなりの「インディーズ精神を貫く」という思想とオーバーラップする。
特に今作は、MCUをはじめとするアメコミ映画のアンチテーゼとして制作されたフシが強い。マーベルやDCはいちキャラクターを実在の存在として仮定し、現代における聖書として体系化する目論見とするならば、
シャマCUは、ヒーロー、ヴィランといったコミック文化自体を非実在として体系化しようとする試みであったと思う。
全てを根底から疑いなおし、超能力の不可能、可能の領域から見直した結果、
ヒーローや悪役はいくら強くても銃弾は皮膚を貫くし、ビームなど出せない、というリアリティに落ち着き、人類を超越するのは英雄たる精神、頭脳のみであると再定義する。今作はそうした超越した人類というマイノリティと、圧倒的大多数によるマジョリティの対立構造を物語として落とし込みつつも、筆者は、シャマランが描きたかったのはニーチェ的な超人論、及びサブカル文化にまつわる、全ての「身の置き所のない人々への救済」という裏テーマではないだろうかと解釈した。
とはいえ、ゴリアテに挑むダビデよろしく、全裸で鉄バット姿でおちんちんを振り乱すこともいとわず、世情に全力でケンカを売りつつ、全ての映画ファンの心情を優しく包み込むインド人(シャマラン)の有様は、先の『バーフバリ』に通ずる、教祖様と呼ぶに相応しい。
画としては西洋絵画の神々しさに匹敵するのではなかろうか。
ともあれ、もうシャマラン自身が”どこでどう観客を裏切るか分からない”歩く大どんでん返しと化している以上、新作が封切られれば、クソみたい出来栄えだろうとクソ傑作だろうと、それを確かめるために劇場に足を運ぶしかないという残酷な図式が出来上がっている。ほんに罪深い男やで。