鑑賞記『アバター 伝説の少年アン』シャマラニストとしての「どうしてこうなった…」という想い。
Amazon上では、各話数単品販売で配信されていた『アバター 伝説の少年アン』
いつのまにかNETFLIXでの配信がスタートしていたので、ようやく全60話近くをイッキ観る事ができた。
この作品の魅力を一言で語るのは難しいが、一言で表すならとにかく
「なにこれ、おもしれええええ!!!!」
と夢中で続きを貪り観てしまうくらいの中毒性なのだ。いや、本当に寝食を忘れて観まくってしまったのだから恐ろしい。
どうしても名前的にジェームズ・キャメロンの『アバター(2009)』を彷彿とさせるが、制作年数的には『伝説の少年アン』のほうがずっと早い2005年のテレビアニメーションシリーズだ。
制作は北米のキッズ向けアニメーションチャンネル「ニコロデオン」
日本ではあまり馴染みの無い名前だが、『スポンジ・ボブ』や『ラグラッツ』など、日本でも名の通ったシリーズをいくつも手がけている。
(残念ながら2009年にチャンネル放送は終了。現在は過去作品の配信を手がけるのみとなっている)
業界に居ついて初めて知ったことだが、特に作画の良い回はかのMADHOUSE御用達の韓国作画スタジオ、「DRムービー」回が多かった。どうりで。
お話としてはざっくり説明すると以下のようなものだ。
”その昔、水、土、火、気の4つの国で成り立っていた。各国には水、土、火、気のそれぞれの技をあやつるベンダー(使い手)が存在し、彼らベンダーの中で、4つの技をすべて使いこなせる唯一の者が『アバター』と呼ばれていた。アバターによって世界の秩序を保たれ、人々は平和に暮らしていたが、火の王国が他の国を攻撃してからは、世界の秩序は崩れてしまった。アバターだけが世界平和を取り戻すことができるのだが、アバターの後継人はたった12歳の少年アン…。しかも、彼はまだ「気」の技しかマスターしていないのであった…” (ニコロデオン公式HPより))
物語は水の民である兄弟、サカとカタラが南極で氷漬けになっていたアンを発見するところから幕を開ける。
火の国の帝国主義によって支配された世界を救うため、水、土、火、気の能力を会得するべく世界各地を旅することになるアン一行。
徐々に仲間を増やし、終盤ではこれまでアンたちが出会った仲間たちが結託し合い、火の国と戦うため団結し立ち上がる…という
回数を重ねた圧倒的な厚みを持ってしてグイグイと盛り上げるスタイルは大河ドラマ形式ならではの醍醐味である。
火の国を追放され失われた名誉を取り戻すべく暗躍する、作中のエモ担当ことズーコ王子とその叔父アイローとの珍道中においては、
理想は高いが、身の丈に見合った実力もなく甘ちゃん気質が抜けないズーコの、
「どうしてお前はいつも誤った軽はずみな選択をしてしまうんだ…!」
という富野作品の主人公のような、思春期まっさかりな感じも父性をビシビシ刺激してきて良いのだ。
(あれやこれやと陰湿な方法でアンたちを追い詰めるも、本当はお母さんっ子で、根は善人で不器用さ故に真逆の言動をしてしまうところがまたね…)
そうしたズーコだが、父親との確執を経て徐々に新たな人間性を獲得していくエモーショナルな展開と同時並行して、アン少年との奇妙な敵対関係がやがて「追う者×追われる者」の単純な関係を超えクロスオーバーし昇華されてゆく構成と演出は見事と言うほか無い。
さて、語りつくせばキリのない魅力に溢れた今作だが、僕が最初にこのシリーズを知るきっかけとなったのは、稀代の「クソ映画」として名高い『エアベンダー(2010)』であった。
この頃のシャマラン作品は『シックス・センス』以降、恐らく『ヴィレッジ』くらいには既に「シャマランは”一発屋”だったのではないか?」という認識がなんとなく超空気感的に広まりつつあった時代で、
『シックス・センス』に関して当時の記事を読む限り、「ラスト驚愕の●分!!」だとか、「あなたはこのラストを予測できない」とか、
観客の予想を裏切る、大どんでん返しの鬼才として取り沙汰された。
後年のキャリアとして振り返ってみれば確かに「ラスト●分の衝撃」に関しては、
現在に至るまでも、やや自覚的に行っているフシがあるとはいえ、
ストーリーテリングの妙味よりも、後半一発のショックに重きを置く作家である事は否定し難かった。
反して、あらゆる複線を強引かつ全力で回収しながらも放たれた剛速球が『サイン(2002)』であり、シャマランの実力に対する疑問符を噴出させる決定打となったのが『ヴィレッジ(2004)』であり、僕を
「シャマラニスト」
とかいうよく分からないカテゴリに引きずり込んでしまった因果な作品もまた『サイン(2002)』だった。
僕が『サイン』をどれだけ愛しているか、また別の機会に記事をブチ上げたいくらい『サイン』が好きなのだが、
ともあれ、その後の『レディ・イン・ザ・ウォーター』以降は自らの映画に出演を繰り返すヒッチコックさながらの文字通り自作自演っぷりに拍車がかかり、
シャマラニストからは称賛と野次を。
それ以外の映画ファンからは野次の他に単純に「チョづいててウザいインド人」と思われていたかも知れない。
なので、公開前からの海外レビュアーからの『エアベンダー』に対する辛口な評論が飛び交う中、当時からシャマラニストだった僕としては、
「でも、シャマラン映画っていつもそうだから…」
という、むしろ捻れた擁護側のようなスタンスを崩せずにいた。
なぜならシャマランの”ソレ”は宮崎駿作品における「女が強い」とか、そういう”お家芸”的な部分で、「無ければ寂しいが有っても作品の評価自体を貶めるものではない」
という、半ば狂信者のそれのような思想を持ってシャマラン作品に接していたからでもある。
時は過ぎ、約8年後…原典たる『アバター 伝説の少年アン』の全シーズンを鑑賞し終わってしまって、
改めてシャマラン印の『エアベンダー』を鑑賞したところ、
シャアアマラアアン!!!
てめぇぇぇぇ!!
監督断れよおおおおお!!!
という気持ちで一杯になった。
ジャッキー映画で慣れ親しんだ馴染み深い香港スタイルのカンフーや太極拳といった拳法の動きを取り入れた、ハッタリと説得力が絶妙なバランスで成り立つアクション。
各エレメントによる特殊攻撃の数々を状況に応じてどう用いるかという戦術的な楽しさや意外性。
単純ながらも壮大なパズルのピースがはまっていくようなドラマの面白さ、キッズ向けゆえの重苦しすぎず軽すぎないキャラクター造詣と絶妙な掛け合いを観る楽しさ。
それら全ては失われ、
『エアベンダー』で披露されたものといえば、味わう間もなく駆け足で進行する物語らしきものと味気の無く虚空を見つめるばかりの登場人物らしき人の形をした物体と、凝ってはいるが想像力のカケラもないCG演出があるのみで、
2時間という尺に収めるための制約があるにしても、
もう少しなんとかならなったのか…
という想いを感じざるを得ない。
そもそもからして筋道を立てて物語を構築するタイプの作家ではなく、「積み重ねた描写を頼りに終盤一点突破でねじ込む」パワー型のクリエイター気質なのがシャマランなので、企画のアテンド先としては最も誤りであったように思える。
しかしながら、過去は振り返っても変えられないとの同じように、
既に完成してしまった作品自体に罪はないのだ。
もしNETFLIXを登録している人が居たら全60話近くという、やや長尺になってはしまうが
是非、原典とも言うべき『アバター 伝説の少年アン』を観てみてほしい。
そこでは物語を追うという喜び、登場人物に感情移入するという体験、アニメーションで絵が動くという純粋な感動と興奮を味わえること請け合いだ。
唯一惜しむらくは今作の70年後を描いた続編、
『レジェンド・オブ・コーラ』が配信はおろか日本語字幕のついた環境での視聴が全く無いといところなのだ。
はぁぁぁぁぁ…