感想『クリード2 炎の宿敵』 完全なるロッキー外伝。さすがに蛇足だったか?

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『ロッキー ザ・ファイナル』はロッキー・バルボアという、スタローン自身の最高のイマジナリーフレンドにとっては、まさに有終の美を飾った作品と言って過言でない出来栄えだった。

 

 

スタローンのキャリア的にも、ほぼ同時期に、ランボーという、現在の立ち位置まで押し上げたキャラクターとの別れを済ませたばかりで、ファンとしては悲しみと同時に、あまりに美しい幕引きにただ涙を浮かべ賞賛の言葉を送るほかなく、これ以上、何を繰り出そうと蛇足だろうと感じたし、見事に作品自体の贅肉が削ぎ落とされ、観客の観たいものと制作者の見せたいものが合致したと実感した稀有な作品だった。

 

さて、話は前作『クリード』だ。

お話の筋としては至ってシンプル。

ロッキーに変わる主人公はアドニスクリード。初期はライバルとして登場し、後にロッキーとの友情を育みながらもロシアからの刺客、イワン・ドラゴとの対戦により命を落とした盟友、アポロ・クリードの息子だ。

ロッキーは盟友の息子であるクリードの師として、真っ白に染まった頭と深く刻まれたシワを携えて、ファンの前に再び姿を現わした。

 

紆余曲折を経て、最愛のエイドリアンも、唯一の友人であった義兄のポーリーも亡くし、若さ故の激しさも失ったロッキーは、取り残さていく孤独な老人として1人の無軌道な若者を導いていくことになる。

 

結論から言えば、僕にとっては『クリード』は外伝らしからぬ、蛇足さを微塵も感じない見事な出来栄えだった。

 

アポロの死によって長く父親の不在を経験したクリードは、ロッキーほど熟した人間性を持ち合わせておらず、幼稚な面が目立ち、常にイラつき怒りの矛先を探している。

一見、死に急いでいるようにも見える姿は、現代を生きる自分の姿とオーバーラップした。

そこに冷や水を浴びせるが如く、「省みない人生」の危険を説く語り部としてロッキーが登場し、ボクシングのテクニック以上の精神をクリードに叩きこむ。何度も失敗や挫折を重ねながらも常に立ち上がり、前を向くロッキーの健全さが徐々にクリードに精神的な成長をもたらした。ゆえに、ロッキー1作目と同じく、ついぞ

クリードがベルトを勝ち取ることはないが、試合後に訪れたフィラデルフィアの大階段にロッキーと肩を並べ、朝日を眺める瞬間にこそ、このシリーズならではの劇的なカタルシスが存在する。

クリードは精神的勝利者であり、他でもない自らに挑み、勝利したのだ。

 

クリード』は「魂の在り方」を探す1人の青年の成長譚という本線の物語と、人生をとうに折り返した男の晩年という、2つの物語が違和感の無い範囲で同時進行し、10点満点中7点くらいの着地を決めた印象が強い。

 

というのも、『ロッキー ザ・ファイナル』まで引き継がれた様々な要素や設定が完全にオミットされてしまっていたからだ。

 

今作ではそうしたロッキーの人間関係も含めたおおよそ全ての疑問に対するアンサーとなっているような内容となっている。

 

前作からやや間をおき、惜しいところでヘビー級チャンピオンのベルトを逃したクリードが、再度、王座に着く為の試合に臨む。

前作で癌を患いながらも、闘病という新たなリングで見事癌細胞にKO勝ちしたロッキーも健在。

前作より更に老け込みながらも、落ち着いたオーラを伴って相変わらずクリードのセコンドを務めている。

 

だが、本作の冒頭は、ある意味ではもうひと組の主人公であるイワン&ヴィクター・ドラゴ親子の朝練風景から幕を開けるのだ。

 

イワン・ドラゴはクリードの父であるアポロの命を奪った張本人。

後に再戦に臨んだロッキーに敗北し、野良犬同然の生活を送っていたらしいが、リベンジのために牙を研ぎ、手塩にかけて育てた息子、ヴィクターをクリードにぶつけようと、姿を現わす。

 

このあたり、詳細に説明やセリフがあるわけでは無いにも関わらず、しっかりとドラゴ親子の関係や選手とトレーナーの微妙な距離感が伝わるような機微な感情がしっかりと伝わってくる仕上がりになっており、イワン・ドラゴ役のドルフ・ラングレンの話の通じない「憎悪の鬼」感も素晴らしく、またタフさの中に繊細さをはらんだ目つきのフロリアン・ムティアヌ演じるヴィクターも、敵役としての威圧感と哀れな父親の操り人形という二重の役割をキッチリこなしていた。

 

ドラゴは過去にしがみつく哀れな労働者階級の老人となりながらも、息子に負の遺産を背負わせ、息子に対し厳しい言葉を浴びせ続け、過酷なトレーニングを強いた。結果、息子は怪物的な肉体を得るも、心には父親からの愛情、敗北を期したドラゴに愛想を尽かし去ってしまった母親に対しての愛情に飢えたファザコン&マザコンという歪な人間性を持ち合わせた人間として成長してしまった。

 

圧倒的なヴィクターの挑戦に完膚無きまでの敗北を喫したクリードだが、何が自分を自分たらしめているかをロッキーに諭され、ヴィクターへの再戦に向けて、トレーニングを開始する。

 

というのが今作のざっとした筋書きだが、

正直、今作は前作に対する物足りなさや、過去に登場したキャラクターの後日談的な側面があるため、期待半分、義務感半分といったところだったのだが、鑑賞後は今作が完全に蛇足であったと認識を改めざるを得なかった。

 

もちろん、良い点が無かった訳ではないのだが、今作を必ず観なくてはならない必然性というものを感じるに至れなかった点は無視できない。

 

確かにドラゴの再登場はファンとしても気にはなっていたところで、その次世代での因縁の対決というのも、物語的には美味しいはずなのだが、いまいち前のめりになれないのは、

ドラゴもクリードも、良い意味で物語をかき回す不協和を奏でる役割を十分に果たしていたように感じなかった点だ。

特にドラゴに関しては序盤の復讐鬼らしさと、「結局何を示したいんだこの親父は」という印象が相反し、目的を純化させていくクリードに対して、最後にはブレブレのまま、何となく過ちに気がつく父親と、両親からの愛情に飢えた息子という構図に落ち着いたが、少々足早な印象もさることながら、単純な対立構造の中にそれぞれの「自らの戦い」を抱いた人物たちの群像劇としてのまとまりの無さに起因する。

 

ともすれば、クリードの「戦う理由」も前作と比較してもさほど変わらない。結局は前作と同じく自らのアイデンティティに由来するものだ。

前作から大きく変わった点といえば、劇中、母親の遺伝で難聴という障害を伴った子どもを授かる事だが、扱いはかなり一方的だし、シナリオの展開以上の役割を担っていたようには見えなかった。

実際、ヴィクターと戦う事でパンチドランカーになったり、打ち所が悪く命を落とす事になったら、障害持ちの妻と娘をどうするつもりなのか?

恐らく、オリジナルのロッキー2におけるエイドリアンとロッキーのやり取りの反復なのだろうが、あちらは一度、日雇い労働者にまで身を落とし、身重のエイドリアンの為に引退まで口にしたロッキーの本心を汲み取ったエイドリアンが、あえて再び夫を戦いに赴くよう激励するというシーンに対して、クリードの行動は段階と要領を得ない、独身男性の只のワガママの様に見えてしまう。勿論、自らの本心は大事だが、まずは所帯でしょうよ、と。

 

しかし、それをしてしまうと完全なる過去作のコピーになってしまうというのは、制作側も感づいていたのか、なにより、今作の脚本を手がけたのはスタローンその人。

シナリオ上の機微に無頓着でなかったのであれば、スタローンの認識自体が変わったという事になる。

 

勧善懲悪の物語に落とし込まなかったのは時代に合わせた結果とも取れるし、スタローン自身の心境の変化かもしれない。

いずれにせよ、編集よりかは脚本だろう。

 

前作が父親の栄光に苛まれ、名無しの権兵衛だったクリードが恋人やロッキーといったサポーターを得て自己を獲得する物語であったならば、今作は前作で得た自己を維持する為の現状維持の物語だったように感じた。

 

正確には娘が産まれた時点で大きな変化はあったのだが、クリードの精神的成長に結びついていないというか、周囲の人々とのアンサンブルがロッキーの醍醐味なのだから、クリードはまず家族を第一に考えるべきだし、その上でパーソナルな葛藤をしてくれれば、こちらもスッキリと肩入れできるのになと率直に思うのである。

 

とはいえ、今作でロッキーは孫やファイナルで登場した息子との和解を経て、いよいよ選手からセコンドと推移し、ようやく1人の人間として家族の元に帰る。

 

いわゆる、クリードは漫画で例えるところの外伝であるので、ロッキーシリーズの評価に結び付く作品ではないにせよ、やはり前作で大体のことはやりきってしまった感が強く、「勝利」や「成長」の定義がもう一歩踏み込んだ位置から眺めたものであれば、更に満足のいくものだっただろうと思ってしまうのは贅沢だろうか。